薄明かりの空間、六辺の壁に囲まれた個室。
陰湿な雰囲気のその場所、古いベッドの上に腰掛けながら眺めるの特殊硝子越しの別世界に居る、君。
僅かな憂鬱さと苛立ちを孕みながら、君は手にした本に目を落としている。
沈黙の世界、右手首に鈍く光る腕輪を指先でなぞれば、細やかな装飾の起伏。
僕は金の髪の君に、口を開いた。
「そう言えばぁ〜、初めましてぇ〜でしたねぇぇ……ジェフティィ〜……」
「は?」
怪訝そうに、青い瞳が僕を射抜く。
「ご挨拶がぁぁ〜、まだだったのでぇ〜……
僕はぁ〜天都屋朔夜とぉ〜、言いますぅ〜」
さらり、伸びた髪を揺らして僕は会釈する。
彼は気持ち悪いモノを見る様に、手にしていた本を閉じて僕と向き合った。
「僕の事は分かるのかい?」
「はいぃ〜……ジェフティはジェフティですぅぅ〜」
「……O.K. 質問を変えよう。
君は、僕が何をしているか、理解している?」
「はいぃ〜。ジェフティはぁ〜、僕のぉぉ、監視及びぃ〜、観察をぉ〜……今はぁしていますぅ〜」
「I,see. 君は何故此処で監視されている?」
「それはぁ〜……僕がぁ〜、失敗作だからですぅ〜」
「この、立てている指は何本?」
「三本、ですねぇ〜」
彼は何度かの質問を繰り返し、手元のバインダーに留めた紙へとペンを走らせる。
「記憶障害、って訳じゃあ無さそうだけど、何なのさ?」
「はいぃ?」
「いや、はい? じゃ無くて。
さっきの挨拶の意図は? 急に言われても気持ち悪いんだけど?」
半眼の瞳は不快そうに問う。
何故、と言われてもしまっても、答えは簡単なのに。
「それはぁ、僕とぉ〜……ジェフティがぁぁ、初めましてたがらですよぉ〜……」
さも当たり前の様子で答えれば、溜息を吐かれた。
「僕達、何度も会ってるじゃないか。
って言うか、このやり取り前にも無かったかい?」
「そぉですねぇ〜……約五年位前にも有りましたぁ〜……」
「Ah〜……うん。そうだったね。
確かその時の理由は……」
「「体細胞のほぼ全てが生まれ変わったから」」
「……ですよぉ〜?」
同音異口。とはこの事で、綺麗に重なった言葉に彼は右の掌を額に当てた。
対する僕は前髪を揺らし小首を傾げて微笑む。
彼は記憶力が良いから、やはり忘れては居なかったらしい。
「本来ならばぁ〜……会う度に言うべきなのでしょうがぁ〜」
「いや、毎回自己紹介されても困るから」
「そうですかぁ〜……不思議ですよねぇぇ〜?」
「それが普通だよ」
普通。
彼の口から零れたその単語の意味を、僕は恐らく理解出来てはいない。
「同じ、なんて無いのにぃ〜」
「同じだよ」
それだけ言うと彼はウンザリとした様子で再び本のページを開き出す。
僕にとって世界は常に目まぐるしく変化している。
今、目の前で話す彼だって、次に会う時には別人なのだ。
世界は五分で、人間ならば約五年から七年で、時間で言うならば今この一瞬で、全て変わっている。
同一時間のタイムスライスには戻れない僕達は、変化する事から逃れられない。
死にたい死にたいと喚く人が世界には居るらしいが、僕にはそれが理解出来ない。
毎日毎日、貴方は死んでいるのに?
自分の意志で貴方を殺せるのに?
変化の中で摩耗していく全てにただ等しく、死は訪れる。
初めまして、さようなら。
僕にとっての世界は、死ぬ為の世界。
それは最大級の無償の博愛。
生き物は死から逃げたがり、目を逸らしたがる。
これほど優しく愛しい事象など無いだろうに、勿体無い。
見上げた天井、その向こう側の空の果て。
この、目に映る天体はかつてはどんな輝きで、未来にはどんな姿になるのだろうか?
僕達は、テセウスの舟、命の方舟だ。
作り替えられながら、日々死んでいる。
タイムスライス上の川の流れに浮かぶそれは同一性であり、全くの別物で、僕達の未知なる場所へと流れ着くのだろう。
その時、優しく抱擁するのだ。
初めて充たされ、初めて失い、初めて完全に最も近付く。
僕の初めてを、捧げるその時に胸が高鳴る。
処女の様に高潔な僕達は、その時初めて知るのだ。
どれ程欲望に負けて貪りまみれても、
僕達は、穢れてなど居なかった。
僕達は、余す事無く美しかった、と。
そっと瞼を閉じる。
ページを捲る音、呼吸、心臓の鼓動。
どの全ても新しく、僕は愛しいと感じていた……