もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話も一旦終わりにしよう。
理学部棟の隅に存在している『量子性物性物理学研究室』とやらのドアを開けると、一人の女性が机に腰掛けて、静かに本を読んでいた。畜蠱の箱庭での騒動から数日が経って、彼女――大辻美子から呼び出しを受けたのである。
大辻は視線を本から上げるや否や、「どうしてだ」と投げ掛けてきた。
「……何がです」
私は手近な椅子を引き寄せて、そこに座った。
「天体物理に興味がなくても、数学科なら総合教育の体系的講義で幾らでも関わる機会はあっただろう。なのに、どうして一度も出席していないんだ」
「線形代数学コースなら宇宙工学などで必要やもしれませんが、解析学コースに興味があるので」
「嘘だな。お前は、そもそも数学が好きじゃない」
「そう言われましてもね」
好悪の二元論で語れるほど学問は単純でもないが、確かに好いてはいない。医学部・獣医学部・歯学部・薬学部・農学部と、理系の学部は他にも沢山あるものの、適当に理由をつけて避けてきた。そうして残ったのが理学部で、数学科だったというだけ…… その理学部数学科とて水が合っているとは言えない。入学してまだ数ヶ月と経っていないというのに、既に編入学試験を考え始めているくらいだ。
「花塚。お前は『シュレディンガーの猫』を知っているか」
無論、知っている。どこかの誰かがご丁寧に解説していた。その時は“シュレーディンガー”だった気もするが、今は延ばさないのが主流なのだろうか。
「箱の中に入れられた猫が生きているのか死んでいるのか、開けてみるまで判らない…… という思考実験でしょう」
「回答としては五十点だ。常識的過ぎる。箱の中の事が判らないだけで、どっちかの状態である事は既に前提としている。ところが、ミクロな量子の世界では、本当に死んでいる猫と生きている猫が重なって存在している事が有り得るんだ」
偉そうに採点された…… まあ、助教授なら実際偉い。学生風情よりも。
大辻は持っていた本を閉じて、机の上に置いた。表題には『Physics World』とあり、英字が並んでいる。そのまま訳すなら、物理世界。
「入門者向けの講義でもするか」
そう言うと大辻は研究室の端に追いやられていたホワイトボードを引き摺って、私の前に設置する。
「入門する気はありませんが……」
「最初だからな、『スリット実験』について簡単に説明しよう」
私の言葉をあからさまに無視して、彼女は備え付けられている黒いペンを手に取った。まだキャップは付いている。
「スリット実験の概要はこうだ。まず、一つの部屋の真ん中に縦長のスリットが入った板を置いて、片側からその板に向かって電子銃を撃つんだ。電界放出型でも熱電子放出型でも良いが、実験に使用されたのは電界放出型の電子銃。熱電子放出型の電子銃と比べて電子密度の高い電子線を撃ち出せるって利点が…… 話が逸れたな。とりあえず、電子を撃ちまくったわけだ。電子っていうのは、乱暴に言えば粒。肉眼で視認できないくらい小さな粒だ。粒子とも言う。目に見えないとは言え、所詮は粒だから撃てば真っ直ぐに飛んでいく。スリット板に当たる電子もあれば、スリットの細い隙間をすり抜けて向こう側へと飛んでいく電子もある。スリット板の向こう側は黒板のようなスクリーンがある。運良く当たらなかった電子が、スリット板をすり抜けた証拠として確認できるように」
そこでようやく大辻はペンのキャップを取り外して、ホワイトボードに幾つもの点を描いた。遠目からだと、縦長の模様に見えるような点を。
「無造作に何度も撃ち続けると、スクリーンにはこういう点描画のような細長い点の塊が現れた。ちょうどスリット板にある隙間の形状と同じ形…… まあ、当然だな。電子は粒子で、真っ直ぐに飛ぶわけだから」
「……大辻、助教授の専門は天体物理では?」
「専門だからって好きとは限らない。お前と一緒だ」
大辻は澄ました顔で説明を続けた。
「でだ。今度は、スリットが二つ入った板で同様の実験を行った。こっちのほうが有名かもしれないな。『二重スリット実験』と呼ばれている。『スリット実験』でもやったように、電子銃から電子を撃つ。無造作に。これも当たり前だが、幾つかの電子は二つのスリットをすり抜けて、その先にあるスクリーンにぶつかる。すると、こういう模様が現れた」
大辻はまたも大量の点をホワイトボードに描いていった。しばらくして出来上がったのは、先程のような縦長の模様。それも等間隔に五つ。
「これが、『二重スリット実験』によって導き出された実験結果だった。用意していたスリットは二つ。だったら、二つの点の塊ができるはずなのに、現実は違ったんだ」
「非形式的誤謬があったのでしょう。たとえば、そもそも“電子は真っ直ぐ飛ぶ”という前提が偽だったとか」
「八十点。悪くない発想だな」
先程よりも高得点だ。何となく嬉しい。
「この縞模様は、物理学的には“干渉縞”と言う。干渉縞は本来、波を扱った実験で観測できる現象なんだ。だが、波っていうのは物質じゃない。エネルギーの伝わり方の一種だ。同じ物質がずっと突き進んでいるわけじゃなく、物質が進んでいくエネルギーを別の物質に伝えて、ようやく波という形になる。波は、空間の分布パターンを伝播させる過程で放射状に広がろうとする特性がある。従って……」
大辻は、またホワイトボードに向き直った。
「先程の実験結果を照らして考えると、電子は二重スリットをすり抜けた後、直進したんじゃない。波のように放射状に広がって進んだって事になる。二つのスリットを通り抜けた電子は、お互いに放射状に進み、ぶつかり合う。ぶつかり合った電子は干渉し合いながら、波紋を形成して…… こんな五つの干渉縞が出来上がるわけだ。五つっていう数は便宜的なもの。実際は無数。無数の縞模様ができる」
私は椅子に腰かけたまま唸った。
助教授だけあって、淀みのない説明だ。世間には説明下手な教授連中が巨万と居るのに。
「しかし、だ…… 電子は波じゃない。先程も言ったように粒なんだよ。でなければ電子銃で撃ち出せやしない。だからこそ、スリットが一つしかない時は、スリットと同じ形の点の塊がスクリーンに現れた」
「なら、プロトサイエンス――未科学的とも言うべき物質が関わっていたのでは? 或いは、認識上の錯誤」
「そうだな。お前のように物を知っている人間なら、そういう結論に辿り着く。人類の知らない、プロトサイエンスな物質が電子に悪戯しているんじゃないかって。だからもう一度実験を行った。今度は無造作にじゃなく、一つずつ、時間を置いて撃ち出したんだ。なのに、スクリーンに現れたのは、また干渉縞だった」
少しだけ気味の悪い話のように感じた。
大辻は、さらに言葉を繋ぐ。
「一つしか撃ち出していないのに、それが二つのスリットを同時に抜けて、干渉を起こしている…… 電子銃から撃ち出された瞬間に、粒子だったはずのものが波のように振る舞い始めたんだ。さらに、二つのスリットそれぞれにセンサーを取り付けて、一つずつ飛ばした電子が、どのように通り抜けているかを観測する実験も行われた。電子は粒子という一つの粒なんだから、片方のセンサーで確認できれば、もう片方は通り抜けていないという事が判明する。そうだろう? 一つの粒が、同時に二つのスリットを通り抜けるなんて事は有り得ない。これは、その通りの結果が出た。一度に両方確認される事はなかった。電子は、やっぱり波じゃなかったってわけだ。だが、そんなのおかしくないか? だったら先程の干渉縞は何だったんだ? という事になる。変わったんだよ。変わったんだ。センサーによるスリットの観測を始めた途端に、電子が波じゃなく、粒として振る舞いだしたんだ…… つまり、結論はこうだ」
大辻がペンにキャップをして、そっとホワイトボードの隙間に置いた。
「電子は観測された事で、『二つのスリットを同時に抜けて、左右からお互いに干渉し合うかもしれない』という可能性を捨てたんだ。電子銃から撃ち出されたのは粒でも、波でもなく、“いま電子がどこにあるのか”という可能性そのものだった」
「……それで、シュレディンガーの猫ですか」
私が呟くと、大辻は口角を吊り上げて笑った。
「わたしは言ったよな? ミクロな量子の世界では、本当に死んでいる猫と生きている猫が重なって存在しているって。可能性っていうのは、観測するその瞬間まで偏在しているんだ。少なくとも、電子を含むミクロの世界ではな。『神はサイコロを振らない』なんて言って、アインシュタインが死ぬまで納得しなかった電子スピンの“量子のもつれ”も、実験によって何度も確認された。ミクロの世界なんて言っても、わたし達の身体を構成する物質も、顕微鏡の倍率を上げて覗いてみれば、つまるところ、原子などの量子でできている。量子論の法則の中に、わたし達は居る。わたし達は皆、そこに在るかもしれないという、可能性のまま、多重に存在している。誰かに観測されるまで。だから……」
大辻がホワイトボードから離れて、こちらへと歩み寄ってくる。ゆったりと。そしてその両手で私の頬を包み込むように触れると、椅子に座っている私の顔を優しく持ち上げた。自然と彼女の顔を見上げる姿勢になった。
「わたしが決めてやる。観測者として、お前の可能性を」
彼女の手は暖かく、掌越しに鼓動が聞こえるような気がした。
その時、だったと思う。彼女の言葉通り、私の大学生活の道筋が決まった…… いや、控えめに言って、人生のそれが決まったのである。