もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。

【さて、常連の方々は、そろそろ退屈してくる頃かもしれませんが、もうしばしだけ初心者向けのご説明にお付き合いください。最初に私は、『あらゆる物質は毒になり得る。重要なのは量だ』と申し上げました。これは間違いなく真実なのです。しかし、量だけでなく、毒性の強さも非常に重要な要素です。量次第で毒になるとは言っても、水とトリカブトを同じ括りにするのは一般的ではありません。常識的に毒と言えば、『少量で健康を害する物質』という定義がしっくりくるのではないでしょうか。つまり、毒性の強さですね。この毒性の強さを表すものとして致死量という言葉があります。ただ、これもあまり正確な言葉ではありません。何故なら、人間には必ず個体差があるからです。数人が同時に、同じ毒を同じ量だけ摂取しても、死ぬ人と死なない人が現れます。体重や遺伝的体質などによって影響が異なるからですね。なので、生物学界隈では“LD50”という基準を用います。これは、『特定の生物の集団に投与して、おおよそ半数が死亡する量』という意味です。半数致死量とも言います。LD0(ゼロ)ならば最小致死量を意味し、最も弱い個体が死ぬ量。LD100の場合は絶対致死量という事になり、最も強い個体でも死ぬ量となります。これら二つは特定の集団内で、飛びぬけた耐性の強弱があると成り立たない為、最初に申し上げた半数致死量のほうが…… つまり、LD50のほうが毒性の強さの表現として、より信頼度が高い基準と言えます】

ルナはそう説明しながら、テーブルのグラスを片付けていった。

【この世に存在する毒の中で、人体に対して、最も強い毒性を持つものとは一体何か。御存じでしょうか】

「……青酸カリ?」

左隣の鳥居がこちらに視線を向けながら、言った。すると常連達が小さく笑う。無知を嘲っているのだろう。
うちの後輩を笑うとは良い度胸しているなと、それぞれに視線を向けると常連達は咳払いをして、何事もなかったように居住まいを正した。

【そうですね。青酸カリはとても有名な毒です。化合物ですので、植物毒や動物毒などに比べると歴史は浅いですが、近年では毒物を使った事件などで、度々使用されるようになりました。“青酸”と言うのが、シアン化水素の事で、カリウムと反応させたものが青酸カリ。ナトリウムに加えると青酸ソーダと呼ばれるものになります。青酸ソーダは一九八四年のグリコ・森永事件でも使われましたね。青酸カリのほうは、戦後まもなくの帝銀事件が有名でしょうか。自身を医者と偽った銀行強盗が、『赤痢の防止薬だ』と言って青酸カリを行員に飲ませ、十二人も殺害しました。痛ましい事件です。人体にとって毒性があるのは、この青酸カリという固体、若しくは液体自体ではなく、それが何らかの物質と反応して発生する青酸ガスなのです。グリゴリー・ラスプーチンという帝政ロシア末期の怪人の名前を、お聞きになった事があると思います。彼は暗殺の対象となり、この青酸カリを混ぜた料理を食べさせられました。しかし、彼には青酸カリが効かず、結局は銃で撃たれた後に川へ放り込まれて、溺死となりました。これは、彼が無酸症という特異体質で、胃酸が分泌されておらず、体内で青酸ガスが発生しなかった為だと言われています。ただ、この青酸ガスは発生すれば猛毒ですが、それを発生させる為に必要な青酸カリの量は、かなりのものです】

ルナが、【お口直しに】と言ってミネラルウォーターのペットボトルをテーブルに置いた。一応、ここでも常連達が飲むのを確認してから口を付けた。

【青酸カリの毒性は、先程のLD50という基準で言うとすれば、体重一キログラムあたり十ミリグラムです。体重が六十キロの成人男性なら、最低でも六百ミリグラムほど必要だという事です。小さじ一杯の十分の一の量ですね。そして、LD50なので、それを飲んだ人の半数が死ぬ程度という事です。こう聞くと、『充分に強い毒性を持っているんじゃないか?』と感じるかもしれません。しかし、並みいる猛毒の中においては、その毒性は低いと言わざるを得ません。たとえば、煙草に含まれるニコチンのLD50は、キログラムあたり七ミリグラムです。意外にもニコチンのほうが、青酸カリよりもずっと毒性が強いのですよ】

それを聞いて、翼を想起した。人前では決して喫わないらしいが、彼女は喫煙者だった。以前、サークル棟の屋上に繋がる階段の前で煙を燻らせていたところを目撃したのである。未成年でもあるまいし、別に隠れる必要もないと思うのだが、独会部長としてのイメージとやらに傷がつくと考えているそうだ。

「リシン、とかですかねえ」

あっという間にペットボトルを空にしたネプチューンが発言する。

【素晴らしい。よく御存じですね。リシンはトウゴマという草の種子に含まれているタンパク質です。トウゴマ自体は観葉植物として親しまれていますが、山のほうに行けば自生しているものもよく見られます。この辺りですと、藻岩山などでしょうか。トウゴマの種から精製できる油は、ヒマシ油と呼ばれていて、下剤として使われる事もあります。リシンは、ヒマシ油精製時の副産物として生まれます。大変強力な毒性を持ち、トウゴマの種を数粒口にしただけでも、含まれるリシンの作用で嘔吐や痙攣を起こし、死亡する事があります。経口摂取よりも血中に直接流し込んだほうが、より強い作用を及ぼします。その毒性の強さは、先程の青酸カリとは比較になりません。リシンのLD50は、キログラムあたり一マイクログラム以下。青酸カリのおよそ十万倍の毒性という事になります。これは、耳掻き一杯分の量で三千万人の人間を殺せるほどの毒性です】

「そんなものが、あの山に……? しかも自生?」

幾らなんでも強力過ぎると思ったのか、鳥居が呟いた。これにはルナの真向かいに位置する常連組の一人である女性――マーキュリーが答えた。

「口にすれば危ないものなんて、世の中には溢れ返っているものよ。毒キノコだってそうでしょう?」

「正月になれば餅という毒が猛威を振るっているしな」

これはマーキュリーの隣、最古参のヴィーナスの発言。
この畜蠱の箱庭においては定番のジョークだったようで、周囲から微かに笑い声が聞こえてくる。

【餅は兎も角として、確かに身近なものでも非常に強力な毒性を持つものがあります。フグ毒などもよく知られていますね。フグの毒はテトロドトキシンと言い、LD50はキログラムあたり十マイクログラムです。青酸カリの千倍ですね。毒物の中でも、十指に入る強さです】

「以前開催された、サバフグとドクサバフグの見分けゲームでは流石に死に掛けた」

右隣のサターンが笑いながら言う。

【フグ毒は、体内で生成しているわけではありません。フグが食べる海藻に付着したプランクトンなどがその起源です。フグがその毒を体内に溜め込み、生物濃縮によって強い毒性を獲得しているのです。このメカニズムは、シガテラという食魚介類の中毒でも同様です。シガテラを引き起こすシガトキシンという毒は、テトロドトキシンとは作用が異なりますが、とても強い毒です。下痢や血圧降下といった症状の他に、ドライアイス・センセーションと呼ばれる珍しい知覚異常を引き起こす事で知られています】

ルナがサターンのほうを、一瞥した。サターンは頷くと痩せ細った両手を目の前に広げる。

「私はいま、そのシガテラ中毒の回復期にある。概ね良くはなったものの、水などが非常に冷たく感じられる知覚異常だけは、なかなか抜けないのだ」

両手には厚手の手袋が着けられている。そういえば、先程のコカ・コーラでも、ペットボトルでも、やけに慎重に手に取っていた。

「素手で持てば、飛び上がってしまう」

サターンは他人事のように笑っている。私は、その姿に不気味なものを感じた。ようやくこの“畜蠱の箱庭”の異常性が垣間見えてきたように思えた。
常連達を改めて観察してみると、マスクの下の顔に、ある共通点が見出せた。肌が荒れているのである。乾燥をする季節でもないというのに、変に黒ずんでいたり、カサカサとした見た目だったり…… これは、毒を体内に取り込み過ぎて、血管やら内臓やらがダメージを受けている証左と言える。特に、右隣のサターンには明らかな黄疸が見られる。肝臓は勿論の事、テトロドトキシンで腎臓も破壊されているに違いない。回復期だの何だのと宣っていたが、サターンという名の席が空くのも時間の問題か。

【さて、先程の、最も強い毒は何か? という問いの答えですが……】

ルナが、サターンから私へと視線を移した。

【ジュピター様ならば、お解りでしょう】

含みのある言い方だった。

「……ボツリヌストキシン」

【まさしく、その通りです。現在はダイオキシン類やVXガスなど、大変な猛毒が化学合成で生み出されていますが、人体に対する毒性という一点においては、ボツリヌス菌が齎すボツリヌストキシンに遠く及びません。ボツリヌス菌は土の中に、芽胞の形で広く存在する細菌です。ボツリヌス菌を含む食物を摂取した人間の腸管内で発芽し、ボツリヌストキシンという毒を出します。乳児に蜂蜜を与えてはいけない、という話を聞いた事があるでしょうか。それは、乳児の腸管内細菌が未発達である為、蜂蜜に含まれているボツリヌス菌の発芽が起こりやすく、乳児ボツリヌス症を発症する可能性がある為です。ボツリヌストキシンの毒性は、先程ネプチューン様が仰ったリシンの、数百倍から数千倍。わずか五百グラムで世界人口の半数を死に至らしめる事ができるとも言われている、最強の毒物です。数年前、東北のアパートで人知れず培養していたという女子学生が居たそうですが、取扱を誤って死亡してしまったとか……】

ルナが、裏から取り出したトレイをカウンターの上に置いた。その、カンッ、という音に全員がビクリとする。鳥居などは、椅子から半分腰を浮かせていた。
しかし、ルナは仮面の下のボイスチェンジャー越しに、クスクスと笑う。

【失礼。畜蠱の箱庭と言えど、流石にボツリヌス菌はお出しできません。とは言え、そろそろ常連の方々は初心者向けの説明に辟易としてきたでしょうから、次のものをお出しします】

再び、グラスがトレイに乗せられて運ばれてきた。今度は赤黒い液体が入っている。見た目だけならばコカ・コーラのそれと似ているが、炭酸が入っている様子はない。

【こちらは、コブラ毒のワイン割りです。かのプトレマイオス朝最後の女王、クレオパトラ七世が自害に使用したという伝説が残っているのが、この毒蛇…… コブラの毒です。彼女は蛇に乳房を噛ませて自殺したと伝えられていますが、その際に使ったのはコブラではなく、クサリヘビだという説もあります。ただ、神経毒のコブラに対し、クサリヘビは出血毒です。その毒は血管や内臓を破壊し、皮膚はただれ、傷口からも多くの出血を伴います。絶世の美女と言い伝えられているクレオパトラ七世の散りざまとしては、あまりに似つかわしくないでしょう。なので、今回はエジプトコブラの毒を使用させていただく事にしました】

「マムシ酒みたいなものかしら」

とマーキュリーが能天気に口を開く。

【蛇の毒はタンパク質なので、熱やアルコールなどで容易に変質します。毒蛇であるマムシを漬け込んだ酒を飲んでも平気なのは、度数の高いアルコールによって毒が変質し、弱まっているからです。コブラ毒のLD50は青酸カリのおよそ五十倍と、それなりに強力ですが、今回のものは毒性を調整してあります。尤も、安心安全なマムシ酒とは違い、お楽しみいただける程度のものにはなっていますが】

ここからが本番だ、と言っているように聞こえた。常連達が興味津々に手を伸ばす中、隣の鳥居は動かなかった。先程は真っ先に取れと言っていたのに。そして、ゆっくりと動くサターンの手が届く頃に、ようやくグラスを持った。私は最後のグラスに手を伸ばした。
澄ました顔で、グラスの中の液体の匂いをかいでいるその姿を横目で見ながら、私は鳥居の思惑を察した。
飲む気はない。
グラスを傾ける常連達に続いて、鳥居もグラスを口元に持っていく。しかし、飲む振りだけだ。赤黒い液体は閉じられた唇に堰き止められる。そして口元を拭って、何食わぬ顔でグラスを置いた。
一方で、私は気にせず口に含んだ。そもそも酒が好きではないというのもあるが、それを差し引いても度数が高く、飲み難い。常温なのに熱を感じる。

「あっ、花塚さん」

それを見て鳥居が目を見開きながら、グラスを持っている私の腕を強引に引っ張った。次いでお叱りの言葉が控えめに飛んでくる。

「あなたという人は……! 危機感とか、そういうのはないんですか! 散々忠告したのに」

「まあまあ。折角だから」

「なにを呑気に! 今すぐ吐き出して!」

「無茶を言わないでくれ……」

などと小声でやり合っていると、「ううっ」と呻くような声がした。向かい側のウラヌスの口から発せられたようだ。ウラヌスは左右に頭を振ると、「俺にはキツイな」と溜息交じりにこぼした。その時、ウラヌスの隣に居るアースと目が合った…… ような気がした。彼女の手元にあるグラスの中身も、鳥居と同様に減っていない。彼女も飲んだ振りをしたのか。
他の常連達は平然としている。そして、身体の変調を確かめるように、目を閉じてゆっくりと深呼吸をしていた。

「なるほど」

ヴィーナスが感慨深そうに呟いた。
何が“なるほど”なのが一切解らないが、馴染みのない私でさえ何の不調も起こさないのだから、彼らにとっては物足りないのではなかろうか。
その後も、主催者ルナによる毒物に関する蘊蓄を聞かされながら、数品の飲食物が提供された。
秦の始皇帝が求めた不老不死の妙薬『丹薬』の伝説や、ルネサンス期のメディチ家繁栄の陰で暗躍したとされる、『貴婦人の毒』と呼ばれるトファナ水の逸話など、結構心魅かれるものも幾つかあったが、それに因んだ提供物は、流石に口にしなかった。手を伸ばそうとする度に鳥居が睨みつけてくるからである。
飲んだ振り、食べた振りばかりしていて、感想を聞かれたらどうしようかと思っていたが、ルナだけでなく、他の参加者も他人には興味がないのか、常連達もこちらに話し掛けてくる事はなかった。
そうして、今まで経験した事のない異様な空間での時間は刻々と過ぎていき、やがて、毒を飲んでいないはずの私の頭がじんわりと眠気を訴えてきた頃…… パンッ、という乾いた音がして顔を上げた。
ルナが両手を叩いたのだ。全員の視線がそこに集まる。

【さて、皆様。本日の催しも、残すところ最後の一つとなりました。ここまでお楽しみいただけておりますでしょうか。初めて参加された方々の一部は、戸惑いもあったかもしれません。至らない点につきまして、主催者として申し訳なく思います】

慇懃に頭を下げたその姿には、意味深なものを感じた。
私は、途中から一切口にしていない事がバレたのだと思った。私達に向いた常連達の視線もそれを物語っている。
だが、些末も些末。文句があるのなら言ってみろ、と開き直って椅子に深く腰掛けた。

【最後は、常連の方々も馴染みのない、一風変わった毒をお目にかけようと思います。毒物を口に入れる事が、なかなか躊躇われる初心者の方々にもご参加いただけるものです】

黒いクロスで覆われているテーブルの上は、すべて片付けられている。

「末端の枝葉の違いは兎も角、大抵の毒は経験してきたと自負しているがね」

常連達を代表して最古参のヴィーナスが言った。

【勿論、皆様の毒物への興味や好奇心、そして愛情からくるこれまでの経験は、並々ならぬものであると承知しております。それでも、これは恐らくご覧になった事がないものでしょう】

ルナの自信満々な言葉に、ヴィーナスは、「そこまで言うのなら」と頷いて一旦溜飲を下げた。

【――では、始めます】

ルナが両手を広げた瞬間、室内の明かりが一斉に消えた。