もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
突然真っ暗になった事で、そこかしこから息を呑む気配がする。私も驚きを隠せなかった。
天井に小さな光が現れた。それは瞬く間に空を覆うように広がり、室内に夜空が生まれた。
プラネタリウムだ。そういえば、部屋の四隅に黒い球体の機械が設置されていた。あれがそうだったのだろうか。

「あら、綺麗ね」

マーキュリーの声がした。
確かに綺麗だった。だが、今更こんなものを見せて一体どうしようと言うのか。
しばらくすると天井で瞬く星の中に、薄っすらとした緑色の線が引かれる。それは、見覚えのある動物などの形をしていた。その上に、白い文字で名前が表示される。
牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座、獅子座、乙女座、天秤座、蠍座、射手座、山羊座、水瓶座、魚座…… 黄道十二星座だ。横に長い楕円形の宇宙を、右から左へと横断するように、十二の星座が並んでいる。
どこからともなく、ルナの声が聞こえる。

【皆様も御存じの星座達が並んでおります。一直線ではなく、波打つように見えますのは、中央のラインが天の赤道…… そしてそれを春分点と秋分点の二箇所で、黄道が跨いでいる為です】

頭上のプラネタリウムに、宇宙の中央を割るように真横に伸びる赤色の線と、その上下で揺れるように並ぶ十二星座に沿った黄色の線が補足として引かれる。
再び、緑色が描画された。かなり大きい。蟹座、獅子座、乙女座、天秤座の辺りに渡って、細長い生き物が現れる。それは巨大な化物のように見えた。

【こちらは、海蛇座です。全天八十八星座の中で最も広い領域を持つものです。英語ではHydra(ハイドラ)と言います。どこかで聞いた事がお有りでしょう。馴染みのある古代ギリシア語では、ヒュドラと呼ばれます。ギリシア神話に登場する、とても有名な怪物ですね】

ヒュドラ。夜空に浮かんだその姿は、どことなく緑の身体に彫られたタトゥーを彷彿とさせる。
プラネタリウムを見上げたまま、抑揚のないルナの無機質な声に耳を傾けた。

【ヒュドラは大変強力な毒を持っている事で知られています。ヒュドラはアングルモアの魔王に遣わされて、地上を荒らし回っていましたが、やがて勇者リュケイオスに打ち倒されました。リュケイオスはそのヒュドラの毒を使って、他の多くの魔物を倒したとされています】

そこで、天井の星の光が弱くなり、代わりに私達が囲うテーブルの上に光が集まり始めた。
SF映画で見るようなホログラムのように、何もないはずのテーブルの上に、映像が浮かび上がる。周囲から、「おおっ」という感嘆の声がした。それは、装飾のついた豪華なカップに見えた。カップの中には液体が満たされているようだった。

【それこそが、ヒュドラの毒。多くの魔物を屠ったとされる、神話の中の毒物。毒物に造詣の深い皆様でも、この実物をご覧になった事はないでしょう】

ハハハ、と笑う声がする。ヴィーナスだろうか。

【ですが、それも無理はありません。神話という、物語の中の毒物だからです。即ち、人間が生み出した想像の産物です。しかしヒトの想像力は、時として、在りもしないものを、本当に存在するもの以上に長く世に伝える事があります。可笑しな事ではありません。過去から未来へ連綿と続く、神話の世界においては、これは実際に在ったものだからです。エリュマントスの猪を捕らえ、ケートスを倒した、恐るべき猛毒。いま私達の前に現れたこの杯の中の毒も、後世の何者かが残した記録の中では、投影された映像ではなく、実在しているのかもしれません。この世界は、無数の可能性を持ったパラレルワールドで構成されている。パラレルワールドの確定者であり、観測者たる人間にとって、実に都合良くできているこの宇宙の法則は、『そうでなければ観測者が存在できない』という逆説的な理由により定められる、人間原理的ランドスケープの中にあります】

淡々としたルナの言葉は、不思議なリズムを刻みながら、私の頭の中を掻き乱した。同様の話を、かつて姉が…… 容が、言っていたような、気がする。

【ご覧ください。この聖なる毒杯を。観測と互換する想像力が、無数の可能性の世界を、確定させる。あなたの頭脳は、頭蓋という密室の暗闇の中に閉じ込められている。光の届かない密室で、脳は視神経から送られてくる信号を捉え、あなたに幻を見せる。嗅覚受容体からは活動電位による匂いを、内耳神経の興奮は音を、皮膚の受容体からは圧力と振動を、味覚受容体からは膜電位の活性化により五つの味を、それぞれに受け取り、密室の中に世界を再構築する】

ぐらん、ぐらんと、世界が揺れる。天の星はすべて消え去り、目の前の杯だけが確かなものとして、そこにあった。

【脳は孤独です。それ故に幻を愛している。信じている世界がそうであるように、と願っている。とても、他愛なく】

ギィィィンンン…………。
頭を締め付けるような金属音が響いた。
すべての光が消え、やがて音も消えた。
何もない、真っ暗闇の中に、私は取り残される。
暗い。
寒い。
何も、ない。
そう思った瞬間、綺麗な黄金の杯が、現れた。
目の前に、ではない。
どこだ。どこにあるのだろう。
それは確かに存在しているのに、位置が掴めない。目で見ているわけでもない。物質的な空間ではなく、どこかよく分からない場所にあるようだ。ただ確かな事は、それは真ん中に、この私の世界の、中心にあるという事だけだった。
つまり、頭の…… 中に?

「あ」

眩しさに目が眩んだ。隣の鳥居が素っ頓狂な声をあげる。
室内の明かりが点けられたのだ。すっかり暗闇に慣れた目が、その明かりに拒否反応を示している。思わず手で顔を覆う。

「馬鹿馬鹿しい」

吐き捨てるような声が聞こえる。ウラヌスの声だ。

「俺はこんな茶番に付き合う為に来たんじゃない」

椅子の倒れる音がした。指の隙間から、薄目を開けると、ウラヌスが立ち上がり、カウンターのほうへ歩み寄っている。

「話が違うな、一間(かずま)。俺が求めてんのは超能力だ。研究成果だ。」

カウンターの前に佇んでいたルナに、ウラヌスが掴み掛るのが見えた。

「動くな!」

ウラヌスの隣に座っていたアースが叫んだ。
確かに、不用意に動くのは得策でない気がした。頭の中の杯は依然として消えていない。目の前の光景に、想像上のものを重ねる事ができるように、黄金の杯は確かにここにあった。
しかしそれは、日常で思い浮かべるイメージとはかけ離れた存在感で、且つ、決して自分の自由にはならない強固さで、ここに在るのだ。
そして、厄介な事にそれは、恐るべき猛毒で満たされた杯だった。
アースの制止などお構いなしに、ウラヌスはルナのマントの胸元を掴んで捻り上げた。

「こんなものは、単なるイカサマ。ペテンだ。俺がこれまで一体どれだけお前に投資したと思っている。ある程度形になったからと聞いて、わざわざ来てみれば、集団催眠紛いのインチキを」

【……およしになったほうが良い】

胸元を掴まれて、只事ではない剣幕で迫られながらも平然とした様子だった。

「廃棄だ。お前も、あのガキと同じ様に」

【そんな風に頭を傾けては】

ウラヌスはルナの仮面に顔を近づけて凄んでいた。私も、他の会員達も、狼狽えながらも立ち上がり、その成り行きを見ているしかなかった。
しかし、次の瞬間。

「ぐっ」

ウラヌスが呻いた。

「あが…… アっ……」

ルナのマントを掴む手の力が、急激に緩んでいくのが分かった。
その格好のまま、視線だけが天を仰いでいる。

「かズま…… てめェ、なニ、しやガッた……」

マスクに開いた目の穴の部分から、血が流れてきたのが見えた。その血がマスクと頬を伝って、足元に滴っていく。
次の瞬間、ウラヌスが床に崩れ落ちた。
猛毒で満ちた杯を傾けて、侵されたのだ。誰に言われるでもなく本能で理解できた。

「だから、動くなと」

アースが顔に手を当てて、溜息を吐いた。器用に、頭部の位置を保ちながら。

「案外、呆気なかったな…… まあ、倫理もとる人体実験を行っていた人間の末路なんて、こんなものか」

倒れ込んだウラヌスはしばらく断続的で弱々しい呻き声をあげていたが、それもやがて聞こえなくなった。

「とんだ騒動に見舞われたが、これは素晴らしい」

ヴィーナスが、ゆったりとした口調で言った。

「ええ。流石に初めての体験ね」

マーキュリーがどこを見て良いのか分からない、という様子で、視線を宙に彷徨わせている。

「あー、びっくりしたなあ」

ネプチューンは、動悸を止めようとするように自分自身の胸を抑えている。

「しかし、これでは飲めんな」

サターンが不服そうに言う。頭の上を探るように、手を振り回しながら。
異様な状況だった。目の前で一人の人間が血を噴いて倒れたというのに、誰もが気にも留めていない。宙に浮かぶ毒杯に夢中だ。知人と思しきアースでさえ、他人事のように動かなくなったウラヌスを憐れむだけ。
すると鳥居が、声を震わせながら、ルナに言葉を投げ掛けた。

「い、今のは…… この畜蠱の箱庭の、ルールに反しているのではありませんか。あなたが説明したルールその二は、『参加者は、提供された物を摂取するか否か、自由意志により判断するものとする』だったはず…… でも彼は、自由意志で摂取していません」

鳥居の抗議に、ルナが淡々と返答する。

【毒は杯に注いで提供しました。気化するものでもありませんし、基本的には安全です。それを本人のミスでどこにこぼそうが、私の関知するところではありません】

「き、詭弁です!」

「詭弁かどうかは兎も角、このままでは飲めないのは確かだ」

ヴィーナスが不満げに呟く。
飲めない? そんな事はないはずだ。現に、このウラヌスとやらは杯の中身を飲んで倒れた。

【では、そろそろ片付けましょう】

ルナがそう言った瞬間、また店内の明かりが消えた。
真っ暗な闇の中で、あの不快な金属音が再び鳴り響いた。
ギィィィンンン…………。
何らかの舞台装置なのだろう。私は軽く耳を塞ぎながら、音の出処を探っていた。
しかし気が付くと、照明が点いていて、先程と変わりのない店内の様子が見えた。
私は両手で自分のこめかみの辺りを押さえた。
何だったのだろう、あれは。幻覚と言われたらそうなのかもしれない。だが、確かに先程まで、それは存在していた。
床を見ると、倒れたウラヌスはそのままだった。やはり微動だにせず、呻き声も聞こえてこない。

【さて、私は倒れられた方を治療しなくてはなりません。本日の畜蠱の箱庭は、これにてお開きとさせていただきます】

ルナの言葉に、常連達から拍手が上がる。

「最後のは本当に素晴らしい。もっと研究して、より良いものを見せていただきたいものだ」

ヴィーナスがそう言うと、他の三人が頷く。
常連達はそれぞれ衣服の皺を払うと、ルナに挨拶をして、何事もなかったように店から出て行こうとしていた。
鳥居がその背中に、叫んだ。

「あのヒュドラの毒杯が手に取れたなら、あなた方は飲んだんですか」

一番後ろを歩いていたサターンが振り返り、「無論だとも」と言った。

「神話に伝えられる、伝説的な毒なのだから。興味は尽きない」

「それでもし、死んでしまったら?」

「そういう運命だった…… という事だろう」

サターンはマスクを取ると、目元が見えないようすぐにサングラスを掛け、さらにハンチング帽を被りながら、軽く会釈をした。

「では、ごきげんよう」

最後にそう言い置いて、夜の街へと消えていった。