タイトルなし

家庭の話をしよう。

『パパみたいな大人になりたい』

私の手元にある便箋には“しょうらいのユメ”と銘打たれた枠組みの中に、そんな文字が躍っていた。いかにも子供らしい稚い筆致。可愛らしくデフォルメされた猫の顔が縁取っているそれは、保存状態こそ良好なものの、折り目はわずかに破れ掛けている。贈られてからさほど時間は経っていないはずだが、それだけ私がこの便箋に目を通した事を物語っているのだろう。
かつて同様に便箋を読んだ妻は鼻白んだ様子で溜息を吐いていた。私も彼女と同意見である事に変わりなかった。互いに、明言こそしなかったが。
次女――紀子が、私という人間をどこまで把握しているのか判然としていない。だから、私は解った気になっていた。甘く考えていた。思い返せば、私とて彼女の歳の頃にはそれが一体何なのか理解していたはずなのに。
先週の木曜…… 三月二十一日。私が仕事で家を離れている間に、紀子は最寄りの総合病院に救急搬送された。妻の連絡を受けて直ちに職場から駆け付けると、救急担当の医療事務員に言われるがまま入院棟へと向かった。主に血管外科の患者を受け入れているようで、グルタラール製剤特有の臭いが強いフロアだった。そのフロアの六〇三号室。四人部屋で構成されている部屋の左奥に紀子は居た。傍らには両目を赤く腫らした妻の姿も。
真っ白な不織布のベッドに横たわる紀子は穏やかな寝顔を湛えていた。最悪の事態を連想せざるを得なかったが、幸いにもその胸元は静かに上下しており、微かに開けられている窓から流れ込んできた風が彼女の長い前髪を揺らして、血の気の引いた頬を擽っている。むず痒かったのだろう。不愉快そうに眉をしかめながらも、瞼を開ける事はなく、枕に預けている首の角度を変えて抗った。
そこで初めて、両腕が使えないという状況をみ込んだ。
紀子の左腕は単なる採血に向かない太さのカテーテルが射し込まれていて、そこから伸びている管には赤黒い液体が満ちていた。それは輸液加温器を通って、ガートル台に提げられた血液製剤と血液凝固阻止剤、生理食塩水の入ったパックの突端と繋がっている。一方の左腕は包帯が幾重にも巻かれていた。
病室には、紀子の寝息以外に聞こえてくるものはない。他に入院患者は居ないらしい。耳を欹てれば待機している看護師の作業音、控えめな会話程度は聞き取れるが、無音と言って差し支えはなかった…… いや、その表現は正しくないやもしれない。
空白。
どちらかと言えば、空白が合っているような気がした。
その空白を埋めるように妻が口を開いた。端的に、必要なだけの情報を伝える為だけの口調。
左前腕に開放性の創傷を負った。拍動性出血と一目で解った為、然るべき連絡を行うのと並行して圧迫止血を施した。しかし、それでも出血は止められなかったので血管外科にて一次縫合。受傷機転からして感染症の心配は要らない。

「運が悪かった。創傷の深さは二センチが精々だった。場所的にも尺骨動脈・橈骨動脈まで届かない。措置に当たった医者も首を捻っていたが、何の事はない。この子の腕には、通常二本しかない動脈が三本あったんだ。元々、人間の腕には三本の動脈が存在するが、正中動脈って呼ばれる真ん中の動脈は産まれる前に退歩して消えてなくなる…… だが、この子の場合はそうじゃなかった。たまに居るらしい。退歩せず、保持したままの人間が。この子はそれを知らなかった。知らないままに、自分で自分を切りつけた」

だから、本当に、運が悪かった。
妻はそのように結論付けて黙り込んだ。すると間を置かずして、横たわっている紀子の側から甲高い電子音が鳴り響いた。次いでビニールが膨張していくような音が耳に届く。
自動の血圧監視装置が作動したのだ。十分間隔だか、十五分間隔だか分からないが、ややあってモニターに表示された数値は正常値の範囲内だった。

「精神科の通院を勧められた。それと、今週中にも児童相談所の人間が来る。搬送した救急隊員か、或いはここの医者か。いずれにせよ、家庭環境に異常があると見て通報したようだ。それまで退院もできない。児童福祉司と児童心理司の判定を…… まあ、そういうのはお前のほうが詳しいか」

妻はそう言って、自嘲気味に笑みを作った。我が子から目を離さずに。
その時、先程の血圧計によって意識が浮上したのか、それとも妻の声に反応したのか、ベッドの上の紀子が眠たげに瞼を持ち上げた。彼女は緩慢な動きで眼球をぐるりと一周させて私達の姿を認めると、「あ」と小さく声を漏らした。
私と妻はベッドの脇に掻きついて紀子を見下ろしたが、言葉が出てこなかった。
大丈夫なはずがない。具合が良いわけない。解りきった、有り触れた言葉しか浮かんでこず、それでも何とか慮った言葉を掛けなければと口を開くが早いか、未だ微睡みの中に在ると思しき紀子は、包帯に包まれている右腕をわずかに掲げた。まるで誇るように。
そして、無邪気に笑いながら、告げた。

「おんなじ」

私達は、決断しなければならなかった。
便箋をゆっくりと封筒の中に仕舞い込んで、無機質なアタッシュケースに収める。代わりに別の茶封筒を手に取った。家庭裁判所からの呼び出し状。今更、弁明の余地もない。
恨んでくれて構わない。そんな言葉さえ、独りよがりの甘えでしかないのである。
左目が利かなくなって二年余り。後を追うようにして右目も不調の一途を辿っていった。今では茶封筒の裏面に描かれた、他人事のような所在地すら満足に確認できない。なのに、やけに可笑しく感じられた。
それが最後の光景だった。
私の目は、遂に見る事を止めた。

タイトルなし

音声入力とやらは存外に便利だね。

タイトルなし

いよいよ全盲も目前だが、時間だけはあるので大学生時分の話でもしよう。

「先程は失礼しました」

縁側に腰掛けて庭の景色をぼんやり眺めていた私に、房は牧歌的なアンティークカップを差し出した。家も和風、衣服も和風なのだから日本茶が出てくると思っていたのだが、注がれている中身はコーヒーだった。私は会釈して皿を引き寄せた。

「こちらこそ、申し訳ありません。本来ならば予めアポイントメントの一つでも取るべきだったのでしょうが、急に押し掛けてしまいまして。それに声も掛けず…… あまりにも気持ち良さそうに寝ておられたので」

「お日様が心地良くて、ついうとうと舟を漕いでしまって……」

房は頬に手を当てて、「お恥ずかしい限りです」と俯いた。彼女の声は瑠璃のように透明で、訛りのようなものは一切なく、淀みない。翼も“日本生まれ日本育ち”と言っていたわけだから当然だが、改めて彼女の顔立ちを見てみると、ハーフという先入観を抜きにしても、やはりどこか日本人とは異なっている。
私は添えられた砂糖とクリームをカップに注いでから、ゆっくりと口を付けた。コーヒーはどうも苦手だが、これは割かし飲み易い。

「ドミニカ産の『アタベイ』という銘柄です。父が現地から送ってきまして」

「お父さんはドミニカでお仕事を?」

「ええ、以前までは。今の勤め先はベルギーです」

貿易商でもやっているのだろうか。

「では、房さんはお母さんと二人暮らしで?」

「母は二年前に他界しています。なので、今この家に住んでいるのはわたし一人です」

二年前に他界。あまり掘り下げてはならない話題な気がした。
それにしても、これだけ立派な家にたった一人とは。庭木の手入れも房が一人で行っているという事なのだろうか。

「それで今日は、あの、ええと……」

「ああ、すみません。花塚と申します」

「花塚さんは今日はどのようなご用件でいらっしゃったのでしょうか。北大の理学部の方が、わたしに何か」

「そうでした」

私はカップを皿に戻して、縁側に立て掛けたままのカンバスに手を伸ばした。

「房さんは、昨年度まで北大の芸術学研究室に在籍していたそうで」

「ええ」

房が頷いたのを確認してから、想定していた幾つかの策の中で、どれが最も適切かを考えた。
今回の目的は独語研究系への勧誘だが、彼女にはその取っ掛かり…… 契機となるものがない。第一関門となる接触こそ突破できたものの、そこから勧誘へと繋げるには、さらに幾つもの関門を通らねばならない。

「……今年度から、とある研究会の運営に携わっておりましてね。吹けば飛んでしまうような集まりです。御存じやもしれませんが、北海道大学に存在している部活動・サークルの数は非公認まで含めると百、二百は下らない数になります。従って、活動場所も限られてくる。割り当てられた場所に文句は言えない。活動場所があるだけマシというわけですが…… どうやら私の研究会が割り当てられたのは、昨年度まで芸術学研究室なる団体が使用していたところのようでして。そこで、かつて芸術学研究室で活動されていた房雨桐さんの絵画が見つかったので叶うのならば返却を、という話になったのです」

慎重に言葉を選ぶ。まるきり嘘ではない。が、純度百パーセントの真実というわけでもない。脚色と誇大表現の範疇。後々になって不都合が生じた場合は、その時に考えよう。
房は、どこか神妙な面持ちで口を開いた。

「わたしの絵が、北大に……?」

「はい。これ、房さんのもので間違いありませんか」

私はナイロン製の袋からカンバスを取り出して、房に示して見せた。青い薔薇を抱く女性。明るい陽の下で眺めると、迫力のある作品だった。房のような女性が何故このような作品を描くに至ったのか…… 気になるところではあるが、今は棚上げにしておこう。
当の房は床に膝を立てて、難しそうに目を細めていた。

「房さん?」

房はしばらく黙ってカンバスを見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。

「これは、わたしのものではありません」

「え?」

「わたしではありません」

「……本当に房さんの絵ではない、と?」

「はい」

沈黙が降りる。
彼女の反応に、私は閉口するしかなかった。絵画の作者ではないとなると、想定していた策のほとんどが水泡に帰す…… 参った。早くも不都合が生じるとは。それなのに、フォローしてくれそうな人間はここに居ない。
現時点で私という人物は、房雨桐からすれば、「訳の分からない絵を担いで現れた不審者」に過ぎない。
横目で様子を窺うと、予想に反して彼女は小さく微笑んでいた。

「でも心当たりはありますので、こちらでお預かりしましょうか? そのうち渡す機会もあるでしょう」

「それは、私としては願ったり叶ったりですが…… 構わないのですか」

「勿論です。わたしはこの通り一人暮らしですから、絵の置き場に困る事もありませんし」

できた女性だ。淑やかで、良識がある。
私は顔を合わせる以前から勝手に房雨桐なる人物を“突飛で非常識な人間”と決め付けていた。あの翼が十人目のメンバーとして勧誘したがるような人間…… それが普通のはずはない。偏見だと解っていても、今の面々を考えれば仕方のない事だろう。
とりあえず、私は彼女の厚意に遠慮なく甘える事にした。作者本人に届ける事はできなかったが、元からして房雨桐に近づく為の口実でしかなかったのだから。それを考慮すれば、まずまずの着地点だった。これで一応の関係は構築できたはず…… だが、この流れから勧誘に持っていくにはもっと段階を踏まねば。それには世間話が必要だった。私は傍らの荷物の手を借りる事にした。

「花言葉などには疎いのですが、やはり何らかの意味があるのでしょうか」

私の言葉を聞いて房は、「そうですね」と思案した。

「薔薇の花言葉は色や品種によって様々です。例えば桃色だと幸福、気品。白だと純潔、素朴。赤は情熱や愛ですね。ただ、キリスト教において薔薇の花弁は神の愛、赦し、殉教などを意味するそうです。そして棘にも罪という意味があります」

「ほう」

「取り分け赤い五弁の薔薇はキリストの血や聖母マリアを象徴していて、宗教画にも度々描かれます。絵の中の薔薇と言えば、花言葉よりそちらを連想してしまいますが、この絵に関しては真っ青な薔薇…… かつては不可能の象徴とされていましたが、今は」

房は口元に手の甲を当てた。そうしてしばし黙考した後、畳張りの床に目を落としたまま呟く。

「夢は叶う」

「……そういえば、まだ大々的に公表されていないものの、青い色素を有する薔薇の開発に成功したとか。それが関係しているのでしょうかね」

「だと、思います」

心ここに在らずといった様子で、房は頷いた。

「房さんも絵を描かれるのですよね」

「ええ。ですが、あまり上手くはありません」

「見せて貰う事はできますか?」

社交辞令ではない。この『青い薔薇を抱く女性』は房雨桐の作品ではなかった。では、彼女の本当の作風はどんなものなのか。純粋に興味が湧いたのである。

「スケッチで良ければ」

房は家の置くから青色の表紙のスケッチブックを持ち出してきた。「何だか照れますね」とはにかむので、私も笑顔で応じた。
スケッチブックに描かれているのは鉛筆の素描で、ラフではなく、細部に渡って緻密に描写されたものだった。題材はすべて、人間。それも身体の一部が肥大化している人間の絵だった。
たとえば、半裸の男が正面を向いている絵。左目だけが顔の半分くらいの大きさで、輪郭の外にまではみ出ていた。
他にも右の膝下だけ肥大化した絵だとか、左手、鼻、口、右耳…… どれも身体の中で一部分だけが異様に大きく描かれていた。
写実的とは遠くかけ離れた、抽象画のような作風と言える。だが、違うのだろう。少なくとも彼女にとっては。

「すみません…… 気味悪いですよね」

房は困ったように笑いかけてくる。私はスケッチブックから顔を上げて、その整った顔立ちを真っ直ぐ見つめた。

「率直に伺っても?」

「どうぞ」

「これらをどこで?」

そんな質問が投げ掛けられるとは思っていなかったのだろう。
房は驚いたように目を見開いてから、ふっと口元を緩めた。

タイトルなし

眼底出血レーザー手術のわずかな寸暇を利用して、大学生時分の話でもしよう。
翌日。土曜も午後一時半を過ぎた頃、私は馴染みのない土地のアスファルトを踏みしめていた。左手には本日の目的にして唯一の荷物たるカンバス。寸法はF30号との事だが、門外漢なので正確な大きさは判らない。縦幅九十センチはあるやもしれない。
有難くも暑さも控えめな過ごしやすい陽気で、風に揺られる新緑がさらさらと波の音を奏でている。これほどの晴天なら散歩するのも悪い気はしない。コンビニで適当に食べ物を拵えて、公園のベンチで頬張るのも良い。食事を済ませたらそのまま一眠り。きっと木々の音にいつまでも身を委ねていたくなるはずだ。尤も、こんな面倒事が無かったらの話である。
この絵画の作者――房雨桐なる人物は札幌市の最東部…… 厚別区に住んでいるらしい。北海道大学のある札幌市北区から向かうには一度『JR札幌駅』で函館本線を利用して、厚別駅まで揺られなければならない。所要時間にして十分程度だが、そこから更に歩かねばならないのが憂鬱だった。駅からそう遠くないところに住んでいるという話だが、荷物さえなければと思わざるを得ない。
多少新鮮な気分で厚別駅のホームに足をつけた私は、翼から教わっていた住所を見直して愕然とした。確かに目的地は駅から遠くなかった。直線距離にすれば二キロ程度だろう。
その距離の曲がりくねった坂道を登らなければならないという、ただそれだけの話だ。

「車でもあればな……」

房雨桐の家は、駅前に広がる住宅街の、さらに奥に突き出たところにあるそうだ。
いくら穏やかな陽気とは言え、太陽の下を数十分も歩いていれば流石に汗が噴出してくる。坂道ともなれば尚更だ。貧血と運動不足で低下した心肺機能は、太股を動かす度に悲鳴をあげる。加えて、今の私は大荷物を提げていた。普通に持つだけなら大した物ではない。だが、提げて歩くとなると話は別である。右手、左手、また右手と持つ手を換えても確実に疲労は蓄積していく。おまけにこの大きなカンバスは些細な風でも容易に煽られる為、重心を保つだけでもそれなりの労力を要求された。
肩で担ぐように持ってしまえば楽なのやもしれないが、風に煽られたカンバスを保持する為に求められる握力に、恐らくカンバスは耐えられない。
使い物にならない材料力学の公式を思い浮かべながら、私は幾つ曲がったかも覚えていない角を、さらにもう一度折れ曲がって進んだ。
次に広がったのは百メートルほどの直線だった。道の左手には擁壁があり、続く先に立派な石垣が見えた。翼の情報に誤りがなければ、あれがゴールのはず。
私は先程からずっと悲鳴を上げ続けている身体に鞭を打った。気持ちとしては全力で駆けてしまいたかったが、それができるのなら苦労はしない。口汚い言葉で己を発奮させつつ歩を進めて、ようやく目的地に辿り着いた。たった百メートルの直線に五分以上費やしただろうか。
立ち止まって息を整える私の側を、老夫婦が軽やかな足取りで通り過ぎていった。我ながら情けない。終わってみると、さほど大層な坂でもなかったような気がしてくる。
私は旅の終着点を見上げた。房雨桐の家は日当たりの良い石垣の上にあった。屋敷というほど広大ではないものの、立派な日本家屋だ。敷地は木柵で囲まれており、庭らしきものもある。植わっているのは桜だろう。既に桜が散り、若葉が光を透き通していた。葉桜だ。葉の瑞々しさが家屋の趣を深めて、建物の趣が葉桜の鮮やかさを際立たせている。一ヶ月か二ヶ月早く来ていれば見事な景色が拝めたに違いない。
門扉へと続く石の階段には大小様々な花が飾られていて、こちらも風景と調和していた。私は鉢にカンバスをぶつけてしまわないよう注意深く段を登って、門の前に辿り着いた。
門には閂が掛けられておらず、インターフォンのようなものも見受けられなかった。ここは恐らく開けて入っても構わないのだろうと思いながらも、後ろめたい気持ちで鉄柵を開けた。今度は庭の風景が目に飛び込んでくる。赤土色の鉢。しっとりと咲く花々。道を見下ろすように伸びていた桜の木。丸い踏み石は水滴を垂らすように配置されており、格子戸の玄関へと続いている。
幸生哲学の家の庭を彷彿とさせるような…… そんな懐かしさを覚える長閑な庭だった。そして午後の陽に照らされたその縁側に、女性が居た。

「…………」

彼女は縁側の柱に寄りかかって座っていた。深い、夜空色の黒髪を垂らした女性だった。その長い夜は川のように流れており、身に纏う薄紅色の着物を黒く濡らしている。華奢な肩の上にある顔は硝子細工のように整い、両の瞼は光を拒絶するように、静かに閉ざされていた。
人形。
頭に浮かんだイメージを、即座に否定した。
それは決して人形ではない。その全身からは目に見えない生命力が溢れており、存在を誇示している。人形ではない。例えるなら…… 絵画。葉桜の咲く庭園を削り取った一枚の絵画だ。彼女はそのカンバスの中心に息づく作品の主役だった。
その絵画に奇妙な感覚を抱いた。観る者の意識を問答無用で没入させてしまうような、悪意にも似た感覚である。
私は大袈裟にかぶりを振って、その強烈な没入感を振り払った。女性の寝姿に現を抜かす為にわざわざ足を運んだのではない。
恐らく、彼女が件の房雨桐なのだろう。馴染みのない名前のせいで性別すら判然としていなかったが…… いや、そもそも私は何も知らなかった。作者の名前と、わずかな経歴以外に何も。何も知らずに、訳の分からない絵画を担いで赴いたのだ。返却という建前の下、勧誘をする為に。しかし、どうしたものやら……。
本音を言えば、絵画だけを置いて帰って、「にべもなく断られた」と報告したい。それくらい今の私は強かに疲れているし、今の彼女は穏やかに眠っている。コミュニケーションこそ取れていないものの、互いの利害は一致しているはず。
邪魔をしたくないし、されたくない。
私はなるべく音を忍ばせて、左手に持っているカンバスを縁側に立て掛けた…… その瞬間だった。

「あ」

最悪のタイミングで彼女が目を覚ました。
深く澄んだ湖のような瞳に見つめられて、私は動きを止める。向こうも静止している。互いに微動だにしない。
寝起きに見ず知らずの怪しい男が目の前に居たら混乱するのは必至。私でさえ、当事者の立場なら混乱を禁じ得ない。
今度こそ人形のように固まってしまったが、程なくして、その濃紺の瞳が明らかな恐怖で揺らぎ始めた。水面に波紋が広がる。状況の把握。記憶の照会。感情の反応。行動の選択。いずれの処理も追いついていない。明らかに好ましくない反応である。私の社会的立場にとってまったく好ましくない。半分開いた彼女の口から、「あ」だとか、「う」だとか声に成り損なった音が漏れる。

「あ…… やっ」

整った顔は不安と混乱と恐怖で崩れつつある。黙っていれば数秒と経たずに悲鳴が響き渡るだろう。非常事態を確信した私は先手を打って言葉を絞り出した。

「決して怪しい者ではありません! 北海道大学の者です!」

怪しくない人間ほど怪しくないと自称するのだが、北海道大学というキーワードが効いたらしい。聞く耳を持つに足りる理由を提示されて、彼女の表情に幾許かの理性が灯っていくのが見て取れた。
とは言え、未だ完璧には事態を呑み込めていないようで、私と、私が持ってきたカンバスとを交互に見比べて、子供のように目を瞬かせている。
ファーストインプレッションが最悪なものとなったのは間違いないだろうが、それならそれで、彼女の理解が追い付いていないうちに畳み掛けておくべきか。

「突然に伺いまして、申し訳ありません。本日は房雨桐さんに御用があってお邪魔しました。あなたが、その房雨桐さんでいらっしゃいますか?」

鼓動を抑えつけるように胸元に手を当てて、その女性――房雨桐は恐る恐る頷いた。怯えを引き摺ったまま。
良かった。何とか話を聞いてもらえる。
だが、これからが本題だ。これからが本題だというのに、私の心身は既に疲弊しきっていた。

タイトルなし

眼底出血レーザー手術のわずかな寸暇を利用して、大学生時分の話でもしよう。

「例えるなら…… そうだなあ、虫とか」

生協会館前のベンチに腰掛けながら、その女性は言った。今後の話の展開にも因るが、ひとまずは耳を傾ける事に注力する。

「花でも良いよ。極端なところ、生物なら何でも」

「はあ」

私は生返事をしつつ、札幌キャンパスの緑々しい景色を眺めていた。瞬く間に夏至を過ぎて、夏日を観測する機会こそ増えたものの、蝉の鳴き声などは聞こえてこない。夏季休暇もまだ…… 煩わしいだけだった大学祭と開学記念行事、そして期末試験を乗り越え、独会における奇妙な仕事にも慣れてきた頃だった。

「生物っていうのはさ、何をするにも、まず食べられないと始まらないんだよ。大抵の生物は幼生の時にどれだけ沢山食べられたかって事が肝心ってわけ。だって、ちょっとしか食べられなかった個体は小さく、いっぱい食べられた個体は大きくなるんだから。これって生物学的には凄く重要なの。体格は色んなものを左右するから。例外もあるけどね。でも、体格が定まれば筋力が定まる。筋力が定まれば体力が定まる。そうなると、行使できる能力も自然と定まる……」

未だ話の落とし所は掴めないが、どうやら発生的類型論のような話をしたいらしい。アメリカの体格心理学者ウィリアム・ハーバード・シェルドンが似たような事を述べていた。

「ヒトってすぐに努力とか才能って言葉を使いがたるけど、あたしとしては懐疑的って言うか…… どうしても概念的な議論に向かうでしょ? そういう議論がしたいヒトはそれでも良いとは思うんだけどさ、精神とか倫理の問題に摩り替っちゃうのはいただけないなって。あたしが思うに、個々の能力っていうのはもっと具体的で、物理的な結果のはずなんだよ。才能にも色々あるだろうけど、体格は一目見て解る才能だって思うんだ。羽が備わっていないと空は飛べないように。目が備わっていないと何も見えないように」

「つまり?」

「つまり…… モデルになって! あたしの、彫刻の! 君の身体は才能なんだよっ!」

両の掌を勢い良く合わせて懇願する女性を他人事のように見やった。
緩いカーブの掛かった短めの金髪を揺らしているその女性は、北海道大学の学生ではない。札幌市の右隣…… 北広島市に拠点を置く道都大学の二年生である。道都大学に存在しているのは福祉学部と美術学部の二つのみであり、北海道では珍しい美術大学と言える。彼女――根建アサヒ(ねだて あさひ)はその道都大学の美術学部デザイン学科に籍を置いており、特に彫刻を学んでいるらしい。彼女について知っている事はそれくらいだ。彼女のほうも、私について知っている事は多くないだろう。
根建アサヒとの縁は、ここ数週間足らずの間に片付けた“仕事”の副産物と言って差し支えない。
私は陰鬱な思いを抱いたまま視線を前方に戻して、噛み締めるように仕事内容を思い起こした。

―――

カンバスには一人の女性が描かれていた。
どこか、暗い部屋の中である。
壁も床も黒く塗り潰され、内装が読み取れるものは何もない。部屋ではなく真っ黒な空間に居るだけなのかもしれない。だが、私の頭は自然と石造りの重々しい牢獄の部屋を想像した。よくよく見ると、カンバスの右側には白い筋が斜めに切り込まれていて、扉の隙間から差し込む光が表現されているのではないかと思えたのだが、やはりドアそのものはカンバスに収められていなかった。
女性は外の光から目を背けるように、或いは逃げるように暗い隅に身を置いて、背を丸めてうずくまっていた。顔は髪に隠れてはっきりとしない。白いワンピースのようなものを身に纏ってはいるものの、そこから伸びる手足は枯れ木のように痩せ細り、服の弛みからは浮き出たあばらが覗いていた。
女性はその骨ばった腕に青い薔薇を抱えていて、交差させた腕の隙間から真っ青な花弁が首をもたげていた。薔薇を抱きしめる皺だらけの皮膚は棘によって傷つけられて、鮮やかな赤が腕を滴っている。そして、傷つく彼女の傍らには光のほうへ首を向ける一匹のトカゲが描かれていた。
青い薔薇を抱く女性。
何故女性は光から逃れようとしているのか。何故傷を厭わず薔薇を抱きしめているのか。
残念ながら、私には理解できなかった。解るのは、女性が暗鬱に蝕まれているという事だけだ。
しかし不思議と不快な印象は受けなかった。抱かれた薔薇が素人目から見ても美しく描かれているからかもしれない。女性も薔薇の美しさに救いを求めているのではないか。“奇跡”なる花言葉を持つ青い薔薇に。

「……それで、今回はこの絵画の持ち主でも探せと?」

私は、カンバスに目を落としたまま訊ねた。

「探すのは持ち主ではなく、絵描きのほうね。まあ、結局は同じところに着地すると思うけれど」

同様にカンバスを眺めていた我が独語研究会の部長――翼が溜息交じりに答える。

「とは言っても、大体の目星はついているわ。この作者は札幌市内に住んでいる房雨桐(フォン ユートン)。名前だけだと大陸の人っぽいけれど、所謂ハーフね。本人は生まれも育ちも日本。去年までこの大学の芸術学研究室に居たものの、芸術作品の考察をしていくうちに自分自身で描く事のほうが好きになってしまって道都大学に編入…… そういう流れよ」

翼は訳知り顔で説明を終えた。

「そこまで判明しているなら終わったも同然だろう。他に何が?」

「もう居ない生徒の作品を置いといても仕方がないでしょう? だから、返してあげようと思って」

私達は今、札幌キャンパス内にある文学部棟の一室に居た。薄暗く、埃っぽい部屋だった。数ヶ月前までは…… もっと言えば、昨年度までは翼の説明にも登場した“芸術学研究室”が使用していたそうだが、半年足らずでここまで老朽化するものだろうか。恐らく、現役の頃から古めかしい造りだったのだろう。壁に西向きの窓が一つ設けられているのみで、照明器具の類は何もない。朝や昼間はさぞかし暗いと思われるが、今は眩しいほどの西日が射し込んでいた。
誰の目から見ても、この空間そのものがデッドスペースとなっている。そんなデッドスペースに絵画が一つ置かれていたとして誰が困る? 誰も困らない。仮に邪魔だとしても、勝手に処分してしまえば良いだけの話だ。わざわざ返却する道理もない。

「もう一度訊ねたほうが良いかい」

意地悪く問い掛けると、翼は唇を尖らせる。

「性格の悪い男はモテないわよ」

「優しさが取り柄の男がモテた試しもないだろうに」

「小羽や鳥居ちゃんに対してはあれだけ優しくして誑かしているのに?」

「誑かしていない」

「さいてー」

「小羽の真似をするな…… と言うか、話を逸らすな」

「十人目のメンバーになるかもしれない」

翼は、簡潔に言い放った。それだけで様々な情報が頭の中に浮かび上がってくる。

「勧誘?」

「端的に言えばね」

翼はゆったりとした動きで腕を組み、再び壁に立て掛けられているカンバスに目を落とした。
要するに、絵画の返却を理由に近づいて独会に誘い込みたいというわけだ。房何某とやらの事情は兎も角、鳥居繭が自由に出入りしている前例があるのだから、大学が異なっていても独会としては問題ないだろう。それに去年までここに籍を置いていたのであれば、堂々とは言えないまでも、この辺りを闊歩していても不自然ではない。不自然なのは、むしろ……。

「……私がやらないといけないのか、それは」

「そういう依頼だから」

「勧誘が仕事だとでも? 一体誰から?」

「スポンサー様から直々に。しかも、あなたをご指名して」

スポンサー…… 古美門間人か。一気にキナ臭くなってきた。奴が標的にしていた正親宗市郎はもう居ない。もう一人の懸念材料である大辻美子も大人しくしている。にもかかわらず、独会は解体される事もなく、当然のように“消毒”を続けている。間人にとって面倒なスキャンダルが残っているという事か? 或いは、この絵画の作者である房何某がスキャンダルの一端を? 考えても解らない。いずれにせよ、これを断れば一層面倒な事になる。

「人員は?」

「今回は、花塚君だけで片付けてもらうわ」

西日を受けて眩く輝いていた二色の頭を睨みつけるも、翼はどこ吹く風とばかりに肩を竦めるだけだった。

「それもスポンサーの意向か」

「そうよ」

「せめて、窪くらいは連れていっても」

「駄目」

ちくしょう。
心の中で毒づくと、見透かしたように翼が口を開く。

「あなたって、窪君を凄く信頼しているわね。月曳之縄の件でもそうだったけれど、事ある毎に彼を重用しているし」

「非常識な環境に身を置いていると、窪のような常識人でバランスを取りたくなるのさ」

実際、独会において窪の存在は貴重だ。いつだったか弱気になっている本人にも告げた覚えがあるが、きっと彼が居なければ独会は遠からず瓦解する。それぞれの癖が強すぎて。そういった目に見えない功績を差し引いても、勧誘を行うにあたって彼の気質はプラスに働くように思えた。少なくとも、小羽や鳥居より何倍も向いているだろう。
翼は溜息混じりに言う。

「情けない事を言わないの。私は今年度で卒業…… 次の部長はあなたなのよ?」

窪もそのような事を言っていたが、本当だったのか。

「……何故私が部長を。来年なら、それこそまだ窪が居るだろう」

「そういう未来なの」

あっけらかんと、翼は言い切った。
未来。鼻で笑って一蹴してやりたいところだが、彼女がそれを口にすれば、重みが違う。そしてそのまま、およそ一年後の状況を語っていった。まるで年表でも読み上げるかのように。

「私とイオが居なくなった、来年の独語研究会は新たに三人のメンバーを迎える事になる。一人はあなたに憧憬を抱いて。一人はあなたに憐憫を抱いて。一人はあなたに殺意を抱いて…… 図らずも多様性を持つ事になった独会はより強固な集団になるわ。それを、あなたが率いるのよ」

「なるほど…… で? その未来とやらに今回勧誘する手筈の房何某は居るのかい」

何気なく訊ねただけだったが、翼は怪訝な表情を浮かべて応えた。
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プロフィール
窓さんのプロフィール
性 別 男性