もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
【いかがでしたか、初めて参加されたご感想は】
バーに残っているのは、私と鳥居と、アースと名付けられた女性…… そして、この頭の集まりの主催者だけだった。
私はそれに答えず、うつ伏せに倒れているウラヌスの身体に触れた。一切動く事のない彼の身体は血塗れで、衣服から覗く肌に生気が感じられなかった。念の為に脈を取ったが、何も感じられない。
私がウラヌスの顔を持ち上げて、血液の付着したマスクを取ると、背後で様子を見守っていた鳥居が声をあげた。
「やはり…… この人、正親宗市郎という名前の不審者です。何年か前に家を訪ねてきた事があったんです。魔除けに興味があると言って」
正親宗市郎。間人が言っていた“毒”の一人か。超能力研究に傾倒していたと言う、あの…… よもや、こういう対面となるとは思わなかったが。
私はウラヌスから離れて額を押さえた。毒が回ったわけではないが、頭が痛い。今は何も考えたくない。ただ、休みたかった。
「救急車を呼びます」
鳥居は短くそう言った。ルナは首を振る。
【私の持つ解毒剤でなければ助かりません】
「なら、それを救急隊員に渡してください」
【残念ですが、今ここにはありません】
「無駄だよ」
そのやり取りに、私が割って入る。
「彼はもう、死んでいる」
それでも鳥居は何かを言おうと口を開けたが、言葉にならない声しか漏れてこなかった。穢れを祓うのとは訳が違う。今の今まで生きていた人間が目の前で死んだ。その事実が、彼女には計り知れない衝撃を与えたのだろう。
私は立ち上がりながら、ルナに訊ねた。
「一間、と言ったか…… こういう時、君はどうする」
【よく効く解毒剤があります】
ルナは“死んでいる”という私の言葉を無視して、そう言うだけだった。
「それで生き返らせられる、と? この人間が毒によって絶命したとして、今からウマ血清、或いはヒト血清を打ったところで何になる? 君の言葉通り、血清でなく、解毒剤だとしても脈は既に止まっている。薬剤を行き渡らせる為のポンプが停止しているのに、薬も何もないだろう」
【問題ありません】
話が通じない。これ以上関わっても無意味か…… そもそも、目薬の件を解明すべく接触したはずだったのだが、なにやら大事になってきている。一間という呼び名を知れただけでも収穫と考えるべきやもしれない。
そう結論付けた時、沈黙を貫いていたアースが目元の仮面を外しながら、口を開いた。
「……ギリシア神話に登場するヒュドラを倒したのは、英雄ヘラクレスだ。さっきアンタが言っていた、勇者リュケイオスなんて奴じゃない。それにヒュドラは、蝮の女エキドナと巨人テュポーンの間に生まれた怪物。その、アングルモアの魔王だとかいう奴の手下なんて話は聞いた事もない。リュケイオスだってそうだ。ギリシア神話に出てきてすらいない。どうして、嘘を吐いた」
あ、と思った。
アースの話もそうだが、彼女の顔に見覚えがあった。札幌キャンパスの理学部棟で何度か見かけた顔。
「大辻美子?」
私が呟くと、彼女は視線をこちらに向けた。それも一瞬だけ。すぐにルナのほうへと向き直る。つられるように私もルナを見た。
真っ白な仮面が、俯いた。微かに震えている。
笑いを堪えているのだと気付くのに、少々時間が掛かった。
【いいえ】
ルナは俯いたまま、首を小さく横に振った。
【怪物ヒュドラを倒したのは、詩人でもある勇者リュケイオスです。ミケーネの王アマリオスと、妃ユラの息子。そういう伝説が残されています。少なくとも……】
仮面が顔を上げた瞬間、また店の明かりが消えた。
【私の知っていた世界ではね】
言葉と共に、天井に光が灯された。プラネタリウムがまた作動したのだ。空に散りばめられた小さな星達が、キラキラと輝いている。
黄色の線で示された黄道の周りの星を囲むように、緑色の線が空に絵を映し出す。
しかしそれは、先程までの、私が知っている黄道十二星座とは明らかに違っていた。
「なんだ、これは……」
大辻美子の声がする。
鳥居も怯えるように息を呑みながら、私の手を強く握りしめた。
【これこそが、八月の胡桃座や九月の角弓座から十月の天秤座の辺りまで伸びている、海蛇座の姿。これが、私の知るヒュドラ。七月の星座である魔王座が地上に遣わせた三つ目の悪魔です】
赤く光る星が幾つも集まって、不気味な顔のような模様を空に描いている。
【そのヒュドラを倒したのは、十二月の星座…… 韻士座のリュケイオスです】
「そんなものは、存在しない」
ルナの解説を、大辻美子が真っ向から否定する。
【おや? 韻士座を御存じありませんか】
ルナの声がまるで空から降ってくるようだった。
【リュケイオスは、自ら倒したヒュドラの毒を使い、その後も現れる魔王アングルモアの遣わした魔物達を次々倒しました。しかし最後にその強力な毒はリュケイオス自身を蝕み、命を落とすのです。そして、天に昇った。十二月の星座として】
プラネタリウムが一度消え、全天球ではなく、一部の空を映し出した。遠くに瞬いていた星が、今度は少し近くに見える。その中の幾つかの星を緑色の線が結び、尻尾のある怪物の巨体を、キラキラと映し出している。特に、頭部にあたる三つの星は眩いばかりの強烈な光を発していた。
【ご覧なさい。頭部に燦然と輝く三ツ星を。不死を象徴するヒュドラの三つ目を。数少ない実視連星でありながら、三重星を成しており、中央に位置するは世にも珍しい脈動変光星…… さながら瞬きをするように点滅を繰り返している】
近づいてくる。
暗闇に紛れて、あの仮面が。
ルナの濃密な気配が傍らまで近づいてきた時、青白い光が放射状に広がった。今までに幾度となく目にしてきた、鳥居の魔除けが放つ光。
振り向くと、緊張した面持ちの鳥居が小石を左手に持っている。
【それだ。その力が、あなたを縛り付けている。あなたは血によって祓っているのではない。魔を退けるその力は、あなただけのもの。あなたはそれを知りもせず、赤子のように盲信している】
機械の声が、震えて聞こえる。
鳥居がかぶりを振った。
「違う。これは千葉家の…… 間違いなく、わたし達の力です。だからこそ、穢れを祓える」
緊張した声色。だが、凛とした言葉だった。
【本当にそうでしょうか。本当に、あなたは穢れを祓ってきたのでしょうか。こんなにも】
耳元で声がした。
【こんなにも近くに、祓わなければならないものが居るのに、あなたは、祓おうとしない】
私の顔のすぐ側で、暗闇の中、プラネタリウムの頼りない光に照らされて、広い仮面だけが宙に浮いていた。
「花塚さんに近づくな!」
鳥居が叫んで左手を振るったが、彼女の十八番とも言える礫は不発に終わった。
私は身動き一つ取れず、心臓を引き抜かれるようなイメージが走った。
しかし、次の瞬間、不思議な事が起こった。
どこか分からない場所で、なにか分からないものが急激に大きくなっていくような感覚に襲われた。高熱を出して寝込んでいる時に感じるような、あの浮遊感。そして、それが突然、私の胸の内側から噴き出してきた。
その赤黒い霧状のものが、私に迫ってきていた仮面を押し戻した。
ガシャン、という音が耳に届く。ルナがカウンターにぶつかったのだと一瞬遅れて気づく。
その赤黒いものは私の周囲をぐるぐると渦巻くように回っている。
「それは……?」
鳥居が、驚いた顔で私に問い掛けた。そんな事は、私が知りたい。しかし、何故か、懐かしい気がした。
再び仮面が宙に浮かんだ。また、生気のない声がする。
【ああ…… なんと素晴らしい。それは間違いなく、純粋な毒。長い時間を掛けて育まれた愛憎の塊】
それはまるで衛星のように私の身体の周囲を回っている。
ハハハハハハハ……。
部屋中に、薄気味悪い笑い声が響いた。
宙に浮かんだ白い仮面を縁取る模様が、波打つように激しく動いている。
私は身構えた。だが、次に聞こえてきたのは、今までのようなボイスチェンジャー越しの声ではなかった。
『畜蠱の箱庭で作られた毒など無意味。人間の手によって生み出された化学合成の毒物が、自然界に存在するボツリヌストキシンの毒性に及ばない事と同様…… 本物の前ではすべてが紛いもの』
仮面から聞こえてきたのは、静かで、冷たい声だった。
『近いうち、その毒が街中に溢れ返る。眠ってはならない夜が来る。その時はまた、こちらに』
その言葉の最後に重なるように、別の声がした。
【駄目だ。もう二度とここへ来てはいけない】
ボイスチェンジャーの声だ。同じ仮面から、二つの声が発せられているのだ。
私は混乱していた。混乱しながら、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
空に浮かんだプラネタリウムの星々が、ますます輝きを強めている。尻尾と鰭のある海蛇の中心部の辺りで、一つの星が激しく輝きながら脈打っていた。その光が大きくなり、目が眩み始めた。
危険だ。なのに、逃げられない。
私は、目を閉じかけた。
その時、何の前触れもなく、すべての光が消えた。空の星はすべて消滅し、完全な暗闇が私達を覆っている。
【まさか】
ボイスチェンジャーの声。そして、カウンターのほうへ走る足音。
明かりが点いた。マント姿のルナが、カウンターの脇にあった照明のスイッチを押したのである。
明るくなった室内で、鳥居が発していた青白い光も、私の周囲を旋回していた赤黒い霧も、何もなかったかのように消えている。まるで幻覚を見ていたようだった。
しかしそれ以上に、私は、部屋の隅を見て驚いた。先程まで居なかった人間が居るのだ。それは見知った顔だった。鳥居よりも背が高く、金色の髪と碧い目が特徴的な女性……。
「イオリス……」
その女性――イオリスの手に黒いコードの束が握られている。コードは、それぞれ部屋の四隅にあるプラネタリウムの装置から伸びていた。
電源コードだ。
それを壁のコンセントから引き抜いたイオリスは、イタズラがバレた時の子供のように目を開いて、私とルナを交互に見ていた。
【やはり、あなたですか】
ルナがそう言ってイオリスに近づこうとしたが、イオリスはコードの束を投げ捨ててクローゼットらしき棚のあるほうに走り出すと、その扉を開けて、上着の束の中へと隠れた。
ルナはそれらを手で押し退けたが、クローゼットの奥が見えただけだった。イオリスは忽然と消えていた。逃げ場などないのは明らかだったのに。
すると、今度はカウンターの奥にある部屋から何事もなかったようにイオリスが顔を覗かせた。小馬鹿にしたような笑みを浮かべて。
「Hey! Fucking bastaed. Try to catch me!」
恐ろしく整った顔から、口汚い英語が飛び出した。
ルナがカウンターの奥の部屋へ、イオリスを追っていこうとしていた。
「今のうちに逃げろ」
大辻美子が短く言い放つ。逸早く反応したのは鳥居だった。彼女は繋いだままの私の手を引っ張った。出入口のほうへ。我に返った私は、もつれそうになる足に力を込めて走った。
視界の端に、流血して倒れているウラヌス――正親宗市郎の姿が映った。それで、先程までここで開かれていた集まりが、現実の事だったのだと思い出した。
部屋から出る時、振り返ると、ルナがカウンターの奥から出てくるところだった。ルナはこちらを一瞥して、両肩を落とす。
【単なる偶然でしょうが、あなたにジュピターと名付けたのは、失敗でした。まさか、あの衛星まで味方していたとは……】
ルナはこちらを追ってくる素振りを見せなかった。嘆くように、首を左右に振っているのみ。
私は鳥居を引き留めて、訊ねた。
「あえて、私もルナと呼ばせてもらうが、最後にルナが片付けた目に見えない金色の毒杯…… あれは、ちゃんと片付けられたのかい」
ルナの動きが止まる。
「しっかり確認したほうが良い。つい口を付けてしまったウラヌス以外にも、空になった杯があるやもしれない」
【……馬鹿な】
「殊の外、悪くない味だった」
【…………】
「数々の魔物を倒した大層な毒らしいが、神話の存在と言えども、LD50は通用するようだ」
その捨て台詞を最後に、固まったままのルナを無視して、私と鳥居は出入口から外に飛び出した。
深夜の寂れた街中は静かで、私達以外に、誰の姿もなかった。
夏を予感させるような風が街を包んでいる。
私と鳥居は、湿り気を含んだ風の中を、あの日のように走った。
駅が見えてきたところでようやく立ち止まり、顔を見合わせて笑った。二人とも、あの奇妙なマスクを付けたままだったから。
マスクを投げ捨てて、息を整えた。気温は低いものの、走ってきたので身体は冷えていない。むしろ、暑いくらいだ。
「いつも逃げてばかりだな、私達」
「遁走も立派な兵法です。長生きの秘訣ですよ」
同様に息を整えた鳥居が可笑しそうに笑いながら、答えた。
「そういえば」
鳥居は羽織っていたマウンテンパーカーの襟元を直しつつ、こちらを見上げながら訊いてくる。
「あの仮面が言っていた“純粋な毒”とは何ですか?」
「……翼とか、ドクターからは何も聞いていないのかい」
鳥居が首を横に振る。
確かに、思い返せば彼女達の口からその言葉が出てきた事はない。ただ単純に“毒”と揶揄されただけだ。ドクターは兎も角、何故か高校生時分の事まで把握している翼が知らないはずはないのだが。
「いずれ解る」
思わず突き放したような言い方をしてしまった。嫌な予感がしたからである。
「そう、ですか」
鳥居は私の顔を覗き込みながら、変に食い下がる事もなく渋々頷いた。しかしその目は、私の奥に在るものを、探ろうとしているようだった。