もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。

【まずお飲み物をお持ちしますので、少々お待ちください】

ルナがカウンターのほうへ移動した。
鳥居がまた顔を寄せてきて、囁く。

「花塚さんの右隣に居る痩せぎすな人と、あっちの太った男の人がここの常連みたいですね」

「そのようだね。特にあの恰幅の良い男性は最古参だとか」

「なのに、どうして金星なんですか」

言われてみれば確かに。参加者それぞれに名付けるとしても一番最初ならば水星が妥当なところだが、金星。太陽系惑星の二番目…… つまるところ、最古参であっても一番最初の参加者ではない。

「最初の水星は居なくなったと考えるべきだろう。さらに、その次に古株と言われた土星までの地球・火星・木星も居なくなった。詳しい事は分からないが、間違いなく私達は二週目以降…… 一体それまでに何名の人間が去っていったのやら」

肩を竦めて言うと、鳥居の表情がわずかに強張った。入れ替わりが激しいという事が何を指しているのか理解したのだ。

【時に、新しい四名の方にお訊ねします】

ルナがカウンターの上にグラスを並べながら言った。

【まずもって“毒”とは一体何でしょうか】

「人体にとって有害とされているものさ」

先んじて私が答える。

【ええ、ええ。とても良い答えです。主体が“人体にとって”というところがポイントですね。たとえば、殺菌に使用されるアルコールは人体にさほど影響がなくても、虫や細菌などに対しては極めて有害な毒と言えます。遡れば…… 太古の昔、地球に存在した生命体は本来、酸素のない環境で生きる嫌気性生物でした。それが、海中の酸素濃度の上昇に伴って多くの種が絶滅しました。彼らにとって、酸素は猛毒だったのです。やがて、その大量絶滅の中から、酸素という毒に耐性を持った生物が誕生し始め、エネルギー源として使用するようになります。今では人間にとって、酸素はなくてはならないものです。私達にとっては何でもないものでも、他の生物にとっては有害かもしれません。どこかに主体を置かないと、定義できないのです。つまり、“人体にとって”という定義があって初めて私達は毒を語る事ができるのです。勿論、鼠にとって、猫にとってと…… その都度、主体を変えて論じる事もできますが】

私は尤もらしい解説を話半分に聞き流していたが、左隣の鳥居は何気ない体を装いながら、ルナの一挙手一投足を観察しているようだった。

【では、私達人間にとって、酸素は毒ではないと言えるのでしょうか】

ルナは自問するように投げ掛ける。

【答えは、いいえ。混じり気のない純粋な酸素は人体にとっても大変有害です。恐ろしいほどに。高濃度の酸素を吸引すると、たちどころに酸素中毒を起こし、意識障害や呼吸困難を引き起こします。大気中においては、約二十一パーセントという濃度でこそ、人体に影響がないだけです。では、水はどうでしょう。水こそ無害だとお思いかもしれませんが、これも大量に摂取すると中毒症状を起こします。血液中のナトリウムイオン濃度を低下させて、頭痛や嘔吐、痙攣、そして呼吸困難を引き起こし、死に至らしめる事も…… 要するに、基本的に人体に入るあらゆる物質は生物活性を持ち、毒となり得るという事です。重要なのは、その量なのです。これは薬においても同じ事です。毒と薬をまったく逆のものだとお考えになっている方もいらっしゃるかもしれません。しかし本来、毒と薬に明確な違いはありません。どちらも人体に入ると生物活性に影響を与える物質です。人体に有効な効能を持つ薬であっても、副作用として、少なからず害をもたらします。また、薬として処方されているものは、必ず用法用量が定められていますが、これを超えて摂取すると、中毒や副作用の危険性が増してしまいます。逆に、有名な毒として知られているトリカブトですが……】

ルナはひとしきり説明を終えると、【どうぞ、お試しください】と言って、皿の中のものを全員に勧めた。

【こちらは、食用の塩附子です】

附子か。生薬としてなら幼少期からうんざりするほど飲んできたが、調味料として対面するのは初めてやもしれない。
私達が様子見をしていると、ヴィーナスやマーキュリーといった常連達が気軽に手を伸ばし、その赤黒いものを摘まんだ。そして匂いをかいだ後、口に入れた。

「久々に口にしたが、悪くない。個人的には生姜と混ぜた乾姜附子湯のほうが好みだが」

と私の右隣のサターンが咀嚼しながら、誰に言うでもなく呟いた。
私達と同じ新顔のウラヌスとアースも、恐々としながらも食べたようだ。残された私と鳥居も顔を見合わせた後で、塩附子を手に取った。
口に入れると、辛味が広がり、舌先がわずかに痺れた。存外に嫌いではない。一方の鳥居は顔をしかめて、小さな舌を出している。口に合わなかったらしい。

「乾姜附子湯も良いですが、渋味のある麻黄附子細辛湯のほうがいかにも漢方らしくて好きですね」

先程のサターンの発言を拾って感想を言ってみると、サターンはこちらに向き直って、「ほう」と感嘆した。

「漢方薬の素晴らしさが理解できるとは…… 若そうに見えるが、見どころがあるな」

「諸事情で沢山の漢方薬と触れてきたもので」

「なるほど。君とは話が合いそうだ」

サターンが肩を揺らして笑う。

【ちなみに、世の中には毒島と書いて“ぶすじま”と読む、変わったお名前の方がいらっしゃいますが、毒を“ぶす”と読むのはトリカブトの附子(ぶし)から来ているそうです。日本においては、それだけ代表的な毒だったという事でしょうね】

ルナはカウンターから、銀色のトレイを持ってきた。トレイには液体の入ったグラスが八つ。そのトレイのまま、テーブルの上に置かれる。

【コカインという麻薬を聞いた事がお有りでしょう。あれは、南米原産のコカという木の葉から抽出した成分を使用しています。南米のインディオ達は、古くからこのコカの葉を、疲労回復の作用があるとして噛んでいたそうです。やがてインカ帝国を征服したスペイン人が、ヨーロッパにコカの葉を持ち帰り、ワインと混ぜた、ビン・マリアーニと言うアルコール飲料を考案します。これがアメリカにも輸入されてブームを起こしますが、十九世紀末葉の禁酒法の時代になり、流通が困難になります。そこで、ジョン・ペンバートンという薬剤師が、ノンアルコール飲料として、コカの葉の成分を使用したものを開発しました。コーラの木のナッツのエキスと混ぜたそれは、『コカ・コーラ』と名付けられて販売されるようになります。当初のコカ・コーラは百ミリリットルあたり、約三ミリグラムのコカインを含み、鎮痛作用や覚醒作用を持つ薬品として扱われていました。しかし、コカインの中毒や禁断症状といった危険性が知られるようになると、コカ・コーラも規制の対象となり、二十世紀初頭には、コカインの成分は取り除かれるようになりました。皆様も、一度はコカ・コーラを口にした事があると思います。それだけ有名なコカ・コーラにも、そんな毒と薬の歴史があったのです】

「今も、コカインの成分が入ったコーラが秘密裏に販売されている、なんて都市伝説がありますけどね」

ネプチューンと名付けられた大柄な男性が、ぼそりと言う。体格に似合わず、陰気そうな声色だった。
するとネプチューンの隣…… ウラヌスが反応する。

「俺はペプシ派だな」

【ペプシ・コーラも、元々は消化を助けるペプシンという薬用成分の入った薬用飲料です。まあ、コカ・コーラは麻薬という人体の害となるものでも用法用量次第では薬になる、という好例ですね。本日は、そんなアメリカの歴史に思いを馳せていただきながら、当時のコカ・コーラを再現したものを、楽しんでいただきましょう】

私達は、改めてトレイの上の乗せられたグラスを見つめる。真っ黒な液体が、ぷつぷつと細かな泡を浮かべていた。

「本物のコカインが入っているのか」

アースが訊ねた。

【ええ。ですが、ごく少量ですよ。薬用飲料の一つとして広く飲まれていたものです。畜蠱の箱庭というアンダーグラウンドなこの場に、麻薬取締法が気になるような方は、恐らくいらっしゃらないかと思いますが】

挑発された形となったアースだったが、本人はあまり気にしていない様子でグラスに手を伸ばした。
それを見た鳥居が、私に素早く耳打ちをする。

「花塚さん。とりあえず、取りましょう。どれでも良いですから」

そう急かされて私は身を乗り出し、一番手前のグラスを取ろうとしてから、もうひと伸びして一つ向こう側のグラスを掴んだ。鳥居も同じようにした。
そして、ゆっくりと残りのグラスを常連達が手に取る。全員に行き渡ってから、鳥居がまた私に耳打ちする。

「様子を見ましょう」

鳥居は、常連達の動きをじっと見ている。やがて彼らが、グラスを傾け、それぞれ感想を述べ合うのを見計らってから、OKサインを出した。
ほんの少しだけ口に含んでみる。開発当時のコカ・コーラと言われると、多少興味があった。
普通のコーラとは、やはり違った。先入観があるからか、市販のそれよりも薬臭い。薬用飲料と言うだけある。だが、コカインの成分とやらは分からなかった。身体にも特に異常はないようだ。
口の中で歴史あるコカ・コーラを味わいながら、私は鳥居の言葉の意味を考えていた。
解っている。畜蠱の箱庭は、もう始まっているのだ。
もし飲み物に危険な毒物が混入されているとしたら、新顔の私達が狙い撃ちされる可能性が高い。たとえば、常連にのみ判別可能な目印や配置の仕方があって、先に安全なものを取られてしまうと、私達が残った毒物入りのものを取らざるを得ない事になる。そこで、常連よりも先に取る事で、そういった状況に陥るのを防ぎつつ、さらにすべてのグラスに毒物が混入されているような場合であっても、先に飲ませる事で、様子を見る事ができる。
先程の塩附子のように皿に盛られて出てきたものとは違って、グラスの飲み物なら、内輪の決まり事を設定しやすい。
私は、周囲の参加者を順番に見回して、緩みかけている気を引き締めた。