もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
仮面から招待状を受け取った二日後の夜…… 私は、最寄り駅の南口に赴いた。以前、片目の道の件で世話になった、あの南北連絡通路が存在する駅だ。もう一人の招待客である鳥居は既に到着しており、南側出入口の傍らに設置されている石造りのベンチに腰掛けていた。
白いオーバサイズシャツの上に薄手のマウンテンパーカーを羽織っていて、下はワイドパンツ、スニーカー。いかにも動き易さを重視したような出で立ちである。全体的に幅広なシルエットなのは不測の事態に備えての事か…… 恐らく、ポケットやら何やらに無数の魔除けでも仕込んでいるのだろう。そして年齢を誤魔化す必要はないとの判断か分からないが、今日は普段通りのポニーテールだった。
鳥居はこちらの姿を認めると、ポニーテールを揺らして手招きをした。促されるままに隣に座ると石造りならではの冷たさが衣服越しに伝わって…… こなかった。妙に温かい。
不自然に思って視線を巡らすと、私と鳥居の間の二本の缶コーヒーが置いてある。どうやら、直前までそれで座面を温めていたらしい。戦国武将の小姓さながらの気配りである。家臣の謀反には気をつけねばなるまい。
「ブラックは苦手でしたよね? キャラメルフレーバーの甘いコーヒーというのがあったので、試しに買ってみました」
鳥居が掌を缶コーヒーに向けながら言った。確かに缶の外装もキャラメル色で、甘ったるそうな印象を受ける。私はそのうちの一本を手に取った。暦の上では立夏を過ぎているとは言え、陽が沈んだ札幌は依然として寒い。仮にブラックコーヒーだったとしても暖を取れるだけ有難い。
しかし鳥居はすぐさま、「ありがとうございます」と微笑んで右手を差し出してくる。私は一瞬逡巡しながらも、それを手渡した。
「花塚さんも、どうぞ」
そう言われて、残ったもう一本の缶コーヒーを手に取った。冷たい。夜風に晒されて温度を奪われたのではない。最初から冷えていたものだ。そして鳥居は、間を置かずに自分自身が手にしている缶コーヒーを私の冷えた缶コーヒーにそっとぶつけて、「かんぱい」と言った。
「……法月綸太郎とか読むのかい?」
訊ねると、鳥居は得意げに笑った。
「少しだけ勉強してきました」
畢竟するに、私は誘導されたのだ。冷たい缶コーヒーを手に取るように。さり気ない誘導で思惑通り温かい缶コーヒーを取った私は、当然のように差し出された鳥居の手に缶コーヒーを渡した。両方とも温かいと決めつけていたし、さらに、「買ってきてもらってきたのだから先に口を付けられない」という心理が働いたからである。掌による誘導を無視して冷たい缶コーヒーから手に取った場合は、鳥居は何食わぬ顔で温かい缶コーヒーを取るだけで済む。
この手のミステリ的誘導は、推理小説家である法月綸太郎の十八番…… 短編小説『黒衣の家』でも読んできたのやもしれない。
仮に私がそういう常識を無視するような奇人だったら成立しない誘導だが、今夜の集まりは何が起こるか分からない。この冷たい缶コーヒーは、鳥居なりの注意喚起というわけだ。
「受験勉強も忘れずに」
「わ、わかっていますよ」
私達は温かい缶コーヒーと、冷たい缶コーヒーを飲み終えて、目的地に向かった。琴似地区からほど近い、北○条西(きたじょうにし)地区なる住宅街に入る。
栄えている琴似地区と比べて、こちら側は開発の進んでいない区域という風情だった。まだ午後八時だというのに人通りは少ない。それだけに、目的地となっているバーの看板はすぐに発見できた。
看板は電飾が切れているようで、暗いままだ。その看板を回り込んだところに地下へ降りる階段があった。
「既視感があるね」
「あんなのは二度と御免です」
「今回はそれ以上やもしれないが」
「異変を感じたらすぐ逃げますよ」
「君が逃げられるだけの時間稼ぎが通用する相手だと助かる」
「花塚さんも逃げるんですよ」
そんな軽口を叩き合いながら、私を先頭に降り始める。暗がりの先に、小さな電灯が点いており、扉が見えた。『売り店舗』という煤けた張り紙があった。相当前からこの状態なのだろう。
本当にここで合っているのか? 一抹の不安を覚えながらも扉を叩くと、すぐに中から、ガチャリと鍵が開けられる音が聞こえた。
向こうに誰かが居る。
恐る恐る扉の取っ手を捻ると、扉は手前に開いた。薄暗い店内の出入口に、あの仮面が立っていた。白い顔を縁取るように黒い模様が波打っている。前回とは、若干模様が異なっていた。
【ようこそ、いらっしゃいました】
ボイスチェンジャーを通した声が仮面の奥から聞こえてきた。当然のように、顎先から下は厚手のマントで覆われている。
【こちらを】
仮面がマントの隙間から両手を差し出した。数瞬だけその内側が覗けたが、マントと同様の真っ黒なスーツに身を包んでいるようだった。両手には金色と、銀色のマスクが乗せられている。顔の上半分のみを隠すようなデザインのマスク。両目に当たる部分は開いており、その周囲に細やかな花をモチーフにした意匠が施されていた。仮面舞踏会。そんな言葉を連想させた。
【参加者は、皆様このマスクを着けていただく決まりになっております。なにぶん、集まりの趣旨が趣旨なので、お互いがどこの誰かなのか、詮索しないようお願い致します】
特別異存はなかった。
私は鳥居と視線を交わしてから、金色のマスクを手に取った。そして鳥居は銀色のマスクを。マスクの両端はゴムでなく、黒い紐が付いており、装飾用の眼帯のように後頭部で括って固定するタイプとなっていた。
「これで良いのかい」
腰を屈めて仮面を覗き込みながら訊ねる。
【結構です】
仮面の目の部分から、光のない黒目が覗いていた。
限りなく低い可能性だが、本田技研工業が開発したような二足歩行型ロボットのようなものを操作しているのではないかと勘繰った。だが、仮面の向こう側は間違いなく人間のようだった。顔から下も肉体を保っているのかという疑問は残るが。
【では、こちらへ。皆様お揃いです】
そう言い置いて仮面は店の奥へ入っていってしまった。仕方なく、私達もそれに続く。仮面の後ろ姿を確認してみるも、全方位くまなく黒いマントで覆われていて、髪型すら判然としなかった。
店内は想像以上に広かった。右手側にカウンターがあり、左手側のスペースに、黒いクロスの掛かった大きなテーブルが置かれている。四人掛けのテーブルを幾つか並べているようだ。
カウンターには誰も居なかったが、テーブルには既に六名の男女が座っていた。
全員がマスクを着けている。色だけがそれぞれ違っているものの、私達のものと同じマスク。そのマスク越しの視線が私達二人に集まっていた。
軽く頭を下げると、仮面がカウンター側の席の前に立って、【そちらの席に】と言った。テーブルのうち、カウンター側から見て、左手側の奥に二人分の席が空いていた。
私と鳥居は椅子を引いて、席に着いた。テーブルには、それぞれの目の前に新品のコースターだけが置かれている。
【……お時間になりましたので、そろそろ始めさせていただきます】
仮面の言葉に反応して、私と鳥居を除いた六名の男女が拍手をする。
【いつもならば堅苦しい事は抜きに、ざっくばらんに始めるのですが、本日は新しい方が四名もいらっしゃいますので、簡単に趣旨説明をさせていただきます】
仮面がコンコン、とテーブルを叩いた。手には白い手袋をしている。その音で拍手が止んだ。
【まずは、ルールその一。この会合の事を、趣味を同じくしない者に話してはならない】
【ルールその二。参加者は、提供された物を摂取するか否か、自由意志により判断するものとする】
【ルールその三。この会の参加者は、提供された物により、いかなる状態に陥ろうとも、自己の責に帰する事を、予め承諾する】
【ルールその四。主催者の正体を詮索してはならない】
最後のルールその四は、定番の笑いどころとなっているらしい。常連と思しき数名が遠慮気味に肩を揺らしている。
【そして、勿論、お掛けいただいたマスクが示す通り、参加者の皆様におかれましても、お互いが誰なのか詮索しないようお願い致します】
そして仮面は、私達と、私達の向かいに座っている二人を両手で示した。
【さて、参加者からのご紹介により、本日より参加される四名の方…… ああ、ここでもどなたからの紹介なのかは伏せさせていただきます。とは言え、全員がナナシでは御歓談もままなりませんので、それぞれこちらでお名前を付けさせていただいております。この会合だけでの呼び名ですので、お気に召さない名前であっても、どうか御容赦ください。ではまず、そちらの方】
仮面は、右手で男性を指さした。マスクこそ装着しているが、仮面のように姿を隠してはいない。恐らくは四十年配くらいだろう。
【あなたはウラヌス様。お隣の方は、アース様】
ウラヌスと名付けられた男性は口元を歪ませて、「アースだとよ。主役じゃないか」と隣の女性に笑い掛ける。二人は顔見知りのようだ。
【次に、あなたは】
仮面は左を向いて、鳥居を指し示す。
【マーズ様。そしてお隣のあなたは九番目のプルート…… としたいところですが、それは些か縁起が悪い】
「何故?」
素直に疑問を口にすると、今しがたアースと名付けられたばかりの女性が独り言のように囁いた。
「去年、ヨーロッパ南天天文台が冥王星の直径の半分に迫るような準惑星イクシオンを発見した。さらに今年に入っても、イクシオン以上の準惑星が発見されている。そのせいで、惑星の定義が改められて冥王星が惑星から準惑星へと格下げされるかもしれない。巷では俎上にも載せられていない話題だろうが、天文学会では既に何度も検討されている」
「近い将来、冥王星は太陽系の惑星と看做されなくなる…… と?」
「そういう事だな」
それきりアースは口を閉ざした。顔を突き合わせて十分と経過していないが、彼女は天文学に一日の長があるらしい事が判った。
【アース様のご解説の通り、プルートはいずれ消えかねない惑星。ちょうど八名揃っておりますから、唯一抜けているジュピターの名を、あなたに】
仮面はそう言うと、私に掌を向けた。そしてそのまま言葉を繋ぐ。
【お気づきの事と存じますが、太陽系に属する惑星の名を順番に付けております。退会なさる方が出ますと、その空き番号に新しい方を入れています。本日の参加者はその他四名。全員を含めてご紹介しましょう】
仮面は、自分の右手側から順に名前を呼んでいった。
【まず私の右から、ネプチューン様】
緑色のマスクを付けた大柄の男性が頭を下げる。ネプチューンと言うと、海王星か。
【それからウラヌス様、アース様】
ウラヌスは落ち着き払った様子で、全員に会釈をした。一方、アースは無愛想を絵に描いたように座ったまま会釈すらしない。それぞれ、天王星と地球だ。
【私の向かいのお二人は、マーキュリー様と、この会の最古参であるヴィーナス様です】
カウンター側の向かいの席に座っているのは、マーキュリーと呼ばれた妖艶な雰囲気を漂わせている女性。それとヴィーナスと呼ばれた恰幅の良いスーツ姿の初老男性だった。水星と金星。
【左手側に来まして、奥からマーズ様、ジュピター様。最後に私のお隣…… こちらも古くからの参加者であるサターン様です】
私は木星、鳥居は火星、そしてサターンと呼ばれた男性は土星だ。サターンは病人のように痩せ細った身体をしており、気怠そうに椅子の背もたれに身体を預けている。その貧相な見た目には、貴族趣味的なマスクが似合っていなかった。しかし、ベテランらしくゆったりとした動作で右手を挙げて応える。
【今夜は、以上八名様での開催となります。新しい方を含めまして、欠番なしと相成りました】
惑星に因んだ呼び名の通り、八名が定員という事か。だが、あのアースとやらの説明が正しいとすれば、準惑星が発見される以前の畜蠱の箱庭はどうだったのだろう。
「君は? 何とお呼びすれば良いのかね」
仮面に声が掛かる。質問を投げ掛けたのは、私達と同様の新参者であるウラヌスだった。
ふいに左袖を引っ張られた。
「花塚さん。あのウラヌスという男、見た事あるような気がします」
急に隣の鳥居が顔を寄せて、耳打ちしてきた。そう言われて向かいのその顔を観察してみたが、顔の半分を覆うマスクで印象が変化しているせいか、いまいち判らない。私の知人には居ない…… と思うが。
【古くから参加していただいている皆様は、私の事を“主催”と呼んでくださいますが、皆様の呼び名に合わせて“ルナ”とお呼びいただいても結構です】
その言葉を聞いてウラヌスが鼻白んだ。
「主催だというのに、単なる衛星なのか。どうせなら太陽とでも名乗れば良いものを」
【古くからこのスルク・エラマス・トクイェでは…… アイヌの人々にとって太陽と月は同一の神とされておりました。日の神ペケレチュプは“明るい太陽”を意味しており、月の神クンネチュプは“黒い太陽”を意味しております。従って、ルナはルナでも黒い太陽と考えていただければ幸いでございます】
月。黒い太陽。
私は、ルナとウラヌスの会話を尻目に先日の事件を思い出していた。地上に居るはずの私達の真上に現れた月の事を。実際は何の関係もないのやもしれない。だが、この地には月曳之縄なる伝承があるとドクターが言っていた。これらの符号を偶然と片付けて良いものか迷っていると、ルナが柏手を打った。
【それでは、今宵もスルク・エラマス・トクイェ(毒を好む友人達)こと“畜蠱の箱庭”を開催致します】