落合さんが十時まで残業した日、既に他の社員は全員退社していた。
そんなときに、一本の電話。
こんな時間に電話なんか普通は入らない。
訝しく思いながらも、落合さんは電話をとる。
「鶴田さんはいらっしゃいますか?」
女性からの電話だった。
確かに、部署の課長補佐は鶴田という男性だった。
しかし当然ながら彼も帰宅しているため、その旨を伝える。
「沖縄の……と申します。鶴田さんに、本当にお世話になりました、とお伝えください。必ずお伝えください」
女性の名前だけが、聞き取れない。
と、電話の声に違和感。
電話じゃない。
どこか、近くで聴こえる。
思わず落合さんは振り向く。
室の入口。
妙に背の高い女性が立っている。
「本当にお世話になりました」
最後に、そう言って、彼女は姿を消した。
件の鶴田さんに沖縄の知り合いがいるのかはわからない。
結局落合さんは、伝える勇気が出なかった。
クロシマと呼ばれた男は、恰幅がよく、というよりも酷く太っていた。西浜も大概太っていたが、その比ではない。講義室の机と椅子の間に肉が食い込んで、息をするのも難儀しているように見えた。
「誰?」
隣の女、こちらも多少太めの、が首を傾げながらクロシマに尋ねる。小声のつもりだったのだろうが、ひよかにははっきり聞こえていた。疑問を持たれて当たり前とわかっていても、なにか不愉快だった。
ひよかは何も言わない。何も言えない。言葉が見つかるはずもない。ひよかとクロシマが見つめあっていると、教授が講義室に入ってきた。
教室は前を向き直り、何事もなかったかのように聴講に入る。頭の中では、さっきの一幕はいったいなんだったのか、それぞれがそれぞれの中で疑問に立ち向かっていた。
ひよかは講義が終わると、一目散に教室を飛び出す。これは九十分前の出来事と関係なく、いつものこと。
クロシマクロシマクロシマ。
それは、つまり、どういことだろう。たまたま彼がクロシマという名前だっただけ。
そうだとしても。
自分の中に流れている黒々とした血は、気持ちが悪いものだった。グツグツと煮えたぎる血が、吐き気を催した。
だから、自分の黒さを殺してしまいたいと思った。自分の黒さが黒島なんだと思った。
黒島が全部悪い。だから、クロシマを。
そうすれば、西浜に会いに行ける。会いに行けないのは、菜々花より自分が劣っているとしたら、黒島の存在だけ。なら、クロシマを。
講義室からゆっくり出てきたクロシマは、女と共に歩いていく。
菜々花が、そうなら。大丈夫。私は、大丈夫。大丈夫じゃないといけない。やってやろうじゃないの。
ひよかは後ろをつけていった。
――バカみたい。
降ってくる声には耳を貸さなかった。