眼底出血レーザー手術のわずかな寸暇を利用して、大学生時分の話でもしよう。
翌日。土曜も午後一時半を過ぎた頃、私は馴染みのない土地のアスファルトを踏みしめていた。左手には本日の目的にして唯一の荷物たるカンバス。寸法はF30号との事だが、門外漢なので正確な大きさは判らない。縦幅九十センチはあるやもしれない。
有難くも暑さも控えめな過ごしやすい陽気で、風に揺られる新緑がさらさらと波の音を奏でている。これほどの晴天なら散歩するのも悪い気はしない。コンビニで適当に食べ物を拵えて、公園のベンチで頬張るのも良い。食事を済ませたらそのまま一眠り。きっと木々の音にいつまでも身を委ねていたくなるはずだ。尤も、こんな面倒事が無かったらの話である。
この絵画の作者――房雨桐なる人物は札幌市の最東部…… 厚別区に住んでいるらしい。北海道大学のある札幌市北区から向かうには一度『JR札幌駅』で函館本線を利用して、厚別駅まで揺られなければならない。所要時間にして十分程度だが、そこから更に歩かねばならないのが憂鬱だった。駅からそう遠くないところに住んでいるという話だが、荷物さえなければと思わざるを得ない。
多少新鮮な気分で厚別駅のホームに足をつけた私は、翼から教わっていた住所を見直して愕然とした。確かに目的地は駅から遠くなかった。直線距離にすれば二キロ程度だろう。
その距離の曲がりくねった坂道を登らなければならないという、ただそれだけの話だ。

「車でもあればな……」

房雨桐の家は、駅前に広がる住宅街の、さらに奥に突き出たところにあるそうだ。
いくら穏やかな陽気とは言え、太陽の下を数十分も歩いていれば流石に汗が噴出してくる。坂道ともなれば尚更だ。貧血と運動不足で低下した心肺機能は、太股を動かす度に悲鳴をあげる。加えて、今の私は大荷物を提げていた。普通に持つだけなら大した物ではない。だが、提げて歩くとなると話は別である。右手、左手、また右手と持つ手を換えても確実に疲労は蓄積していく。おまけにこの大きなカンバスは些細な風でも容易に煽られる為、重心を保つだけでもそれなりの労力を要求された。
肩で担ぐように持ってしまえば楽なのやもしれないが、風に煽られたカンバスを保持する為に求められる握力に、恐らくカンバスは耐えられない。
使い物にならない材料力学の公式を思い浮かべながら、私は幾つ曲がったかも覚えていない角を、さらにもう一度折れ曲がって進んだ。
次に広がったのは百メートルほどの直線だった。道の左手には擁壁があり、続く先に立派な石垣が見えた。翼の情報に誤りがなければ、あれがゴールのはず。
私は先程からずっと悲鳴を上げ続けている身体に鞭を打った。気持ちとしては全力で駆けてしまいたかったが、それができるのなら苦労はしない。口汚い言葉で己を発奮させつつ歩を進めて、ようやく目的地に辿り着いた。たった百メートルの直線に五分以上費やしただろうか。
立ち止まって息を整える私の側を、老夫婦が軽やかな足取りで通り過ぎていった。我ながら情けない。終わってみると、さほど大層な坂でもなかったような気がしてくる。
私は旅の終着点を見上げた。房雨桐の家は日当たりの良い石垣の上にあった。屋敷というほど広大ではないものの、立派な日本家屋だ。敷地は木柵で囲まれており、庭らしきものもある。植わっているのは桜だろう。既に桜が散り、若葉が光を透き通していた。葉桜だ。葉の瑞々しさが家屋の趣を深めて、建物の趣が葉桜の鮮やかさを際立たせている。一ヶ月か二ヶ月早く来ていれば見事な景色が拝めたに違いない。
門扉へと続く石の階段には大小様々な花が飾られていて、こちらも風景と調和していた。私は鉢にカンバスをぶつけてしまわないよう注意深く段を登って、門の前に辿り着いた。
門には閂が掛けられておらず、インターフォンのようなものも見受けられなかった。ここは恐らく開けて入っても構わないのだろうと思いながらも、後ろめたい気持ちで鉄柵を開けた。今度は庭の風景が目に飛び込んでくる。赤土色の鉢。しっとりと咲く花々。道を見下ろすように伸びていた桜の木。丸い踏み石は水滴を垂らすように配置されており、格子戸の玄関へと続いている。
幸生哲学の家の庭を彷彿とさせるような…… そんな懐かしさを覚える長閑な庭だった。そして午後の陽に照らされたその縁側に、女性が居た。

「…………」

彼女は縁側の柱に寄りかかって座っていた。深い、夜空色の黒髪を垂らした女性だった。その長い夜は川のように流れており、身に纏う薄紅色の着物を黒く濡らしている。華奢な肩の上にある顔は硝子細工のように整い、両の瞼は光を拒絶するように、静かに閉ざされていた。
人形。
頭に浮かんだイメージを、即座に否定した。
それは決して人形ではない。その全身からは目に見えない生命力が溢れており、存在を誇示している。人形ではない。例えるなら…… 絵画。葉桜の咲く庭園を削り取った一枚の絵画だ。彼女はそのカンバスの中心に息づく作品の主役だった。
その絵画に奇妙な感覚を抱いた。観る者の意識を問答無用で没入させてしまうような、悪意にも似た感覚である。
私は大袈裟にかぶりを振って、その強烈な没入感を振り払った。女性の寝姿に現を抜かす為にわざわざ足を運んだのではない。
恐らく、彼女が件の房雨桐なのだろう。馴染みのない名前のせいで性別すら判然としていなかったが…… いや、そもそも私は何も知らなかった。作者の名前と、わずかな経歴以外に何も。何も知らずに、訳の分からない絵画を担いで赴いたのだ。返却という建前の下、勧誘をする為に。しかし、どうしたものやら……。
本音を言えば、絵画だけを置いて帰って、「にべもなく断られた」と報告したい。それくらい今の私は強かに疲れているし、今の彼女は穏やかに眠っている。コミュニケーションこそ取れていないものの、互いの利害は一致しているはず。
邪魔をしたくないし、されたくない。
私はなるべく音を忍ばせて、左手に持っているカンバスを縁側に立て掛けた…… その瞬間だった。

「あ」

最悪のタイミングで彼女が目を覚ました。
深く澄んだ湖のような瞳に見つめられて、私は動きを止める。向こうも静止している。互いに微動だにしない。
寝起きに見ず知らずの怪しい男が目の前に居たら混乱するのは必至。私でさえ、当事者の立場なら混乱を禁じ得ない。
今度こそ人形のように固まってしまったが、程なくして、その濃紺の瞳が明らかな恐怖で揺らぎ始めた。水面に波紋が広がる。状況の把握。記憶の照会。感情の反応。行動の選択。いずれの処理も追いついていない。明らかに好ましくない反応である。私の社会的立場にとってまったく好ましくない。半分開いた彼女の口から、「あ」だとか、「う」だとか声に成り損なった音が漏れる。

「あ…… やっ」

整った顔は不安と混乱と恐怖で崩れつつある。黙っていれば数秒と経たずに悲鳴が響き渡るだろう。非常事態を確信した私は先手を打って言葉を絞り出した。

「決して怪しい者ではありません! 北海道大学の者です!」

怪しくない人間ほど怪しくないと自称するのだが、北海道大学というキーワードが効いたらしい。聞く耳を持つに足りる理由を提示されて、彼女の表情に幾許かの理性が灯っていくのが見て取れた。
とは言え、未だ完璧には事態を呑み込めていないようで、私と、私が持ってきたカンバスとを交互に見比べて、子供のように目を瞬かせている。
ファーストインプレッションが最悪なものとなったのは間違いないだろうが、それならそれで、彼女の理解が追い付いていないうちに畳み掛けておくべきか。

「突然に伺いまして、申し訳ありません。本日は房雨桐さんに御用があってお邪魔しました。あなたが、その房雨桐さんでいらっしゃいますか?」

鼓動を抑えつけるように胸元に手を当てて、その女性――房雨桐は恐る恐る頷いた。怯えを引き摺ったまま。
良かった。何とか話を聞いてもらえる。
だが、これからが本題だ。これからが本題だというのに、私の心身は既に疲弊しきっていた。