心臓が高鳴り、身体は小刻みに震え表皮全てがビリビリと痺れる。背中にじわりと冷たい汗が滲んで衣を湿らせていく。
狭い脳内で警報が不愉快に反響、して、
◆
ふっと、息を吐く。
寝巻きのTシャツが肌にはりついて、朝から不愉快なほど汗をかいていた。
「…おはよう」
ちらりと時計を横目に見てから、ベッドから上体を起こす。それだけで軽く目眩がして思わず右手を額に添えた。酷く怠い朝だ。それでも施設の子どもたちに貰った少し不恰好なぬいぐるみに挨拶だけは欠かさずに目を向ける。少し掠れた声ではあったけれど、今日は勘弁してもらおう。じっとりした気分から切り替えたくて、怠い両脚を叱咤し一期は風呂場へ向かった。
ここ最近、粟田口一期の朝は早い。通勤の電車は一時間前倒しになり、会社近くのチェーン店でコーヒーを飲んでから出勤する。真面目できっちり、優等生然とあるように振舞ってはいるが、幼い頃から実は朝が弱い。それゆえいつも通勤ラッシュ真っ只中の電車に乗っていたはずが今は比較的空いた電車に乗れるし、チェーンとはいえ朝のコーヒータイムまである始末。まあ余裕がある朝はそんなに悪くない。
なんて、そうとでも考えねばやってられない、というのが実情とも言えた。
「一期くん、おはよう」
「おはようございます、燭台切課長」
今朝もいつもの場所でコーヒーを飲み、ビルの入口で社員証を翳したところで後ろから爽やかな声がかかる。この生活時間帯になって、一期は総務部の社員管理課課長とよく会うようになった。爽やかなイケメンを体現する彼は気さくで、月並みだが眩しい笑顔を見ると心が少し軽くなる。
今日も早いね、という彼の声と社員証読み取りの音がかぶる。返事をしながら改札ゲートを潜り切った瞬間、くらりと視界が揺れて自分がどの足を出しているのか分からなくなって縺れる。身体がスローに傾いていくのにどの向きに手を出せばいいのかも分からない。ただ、頭の片隅でまずいとだけ思った時にはがっしりとした体躯に支えられていた。
「大丈夫?!」
「課長すいません、ありがとうございま、す、」
燭台切とは部署柄たまに仕事中にもやりとりするもののフロアも違う。朝に会うといってもせいぜいゲートからエレベーター内まで。その中でさえ分かるしっかりとした身体つきに鍛えているとは思っていたが、スーツ越しのそれは一期の予想以上にがっしりとしていた。自分とて多少細いが小柄ではないから、彼でなければ流石にこんなにしっかりとは受け止められなかっただろう。
なんて、普段ならば冷静に考えていたかもしれない。だがいまは自分が何を考えているか分からないほど、何かを考えている。思考が分散しているような、酷く集中しているような。燭台切が触れた瞬間、キィンと耳鳴りが聴覚を貫き、変に浮遊した感覚に襲われた。
来ないで。
鼓膜を直接触るような、心臓を掴むような、声にならない声が、脳内を突き抜けて、
「…ちご、一期くん、」
来ないでください、来てはなりません、あなたはいつも、
思考が濁流に呑まれていく。一期の意思とは関係なく、勝手に言葉を引きずり出してくるのが気持ち悪い。目には確かに燭台切の腕と床が映っているのにまるで現実と結びつかない。
しかもこの声は、自分だ。
「…っ、」
信じられない言葉の速度に流されかけたところで突如うなじを襲った冷気に、ぱっと焦点が合った。浮遊感を少し残しながらも五感が急激に戻る。燭台切の腕に寄りかかる形で前のめりになっていたのを一期は慌てて立て直した。リノリウムの床で若干滑りはしたが、かつてない速さで体勢は整ったと思う。頬に熱が集まるのを感じながら少し上にある整った顔を見ると、安堵の表情が浮かべられていて一気に申し訳なさと羞恥がこみ上げた。
「もっ、申し訳ありません燭台切課長…!!」
「…よかった、意識はあったんだね」
「少し脚が縺れまして…ご心配には及びません」
「本当に?」
「はい、もちろんです」
「社長に苛められてるんじゃない?本当に大丈夫?」
「ええ、そんなことは全く」
「…なら、いいんだけど」
「最近夢見のせいで寝付きが悪く…お恥ずかしい限りですな」
力を抜いて笑うと、ようやく微かに燭台切も笑う。焦点が合っているのが確認出来たのか、腰に添えられていた手が離れていったと思えば軽く頭を撫ぜられる。寝不足のせいかそれがひどく心地よく、思わず目を細めると燭台切は笑みを深くしてから手を離した。
二人して立ち止まった様子を、後ろから来た社員が不思議そうに見ながら挨拶をして通り過ぎる。気が付けばそろそろ出社ピークの時間帯に差し掛かろうとしていた。社員だらけの時じゃなくて良かったとほっと息を吐く。
ちらりと腕時計に目をやって、燭台切と一期はどちらからともなくエレベーターホールへ歩き出す。
「それにしても夢見、かぁ…」
「はい、明確に憶えてはいないのですが」
「…悩み事があったらいつでも来て、そのための総務だからね」
「ありがとうございます」
そこからは他愛ない話をして、先に降りる燭台切をエレベーターの中から見送った。
無人になった箱の中で無意識に思考は回顧を選ぶ。さっきの声はなんだったのだろうか。咄嗟にに自分の声だと判じたけれど実は全然違ったかもしれず、字面だけがこびりついたそれは確かめようにももう音が再生出来なかった。まさか起きていながら夢をみていたのではと思うものの、流石にそれはないと思いたい。だがしかし、最近みる夢と全くの別物だとも、思えなかった。
自分の職場であるビル最上階まではあとほんの数秒。その間に切り替えねばなるまいと軽く頭を振った。
◇◆◇
あぁ、またあの夢だ、といつものように頭の片隅で認識した。いつもより身体の感覚がひしと脳まで伝わってくる。
だのに体が動かない。体幹や脚に反して顔だけがどこかを見るために正面を向いておらず、両手は何かを握りしめて押し負けるような感覚がある。喉がひりひりしてとても渇く理由はすぐに分かった。
叫んでいる。
脳内でいつものように不愉快な警報が鳴る。反響する中に声が混ざっているのに、何を言っているのだか全然聞き取れない。確かにそれは、自分の声、のはずなのに。
視界の隅をちらりと何かが掠めたような気がした。
◇◆◇
「一期」
「はい、社長」
「疲れておるのか」
今日の夢はこれまでで一等ひどかった。
ビルの最上階、一期の職場は社長室だ。朝は掃除をし、珈琲の用意をしながら空調を整えることから始まる。奥の壁一面がガラスになった部屋はとても見晴らしがよく、晴れていれば随分遠くまで見通すことが出来た。
明るい部屋の中で、静かにパソコンと書類を見比べる社長が事もなげに突如として言い放つ。確かに先ほど給湯室で目頭は押さえていたが、どこか仕事に出てしまっているのだろうかと不安になる。そうならぬよう努めているつもりだったし、現に燭台切のあの一件こそあったものの特に他の者から指摘を受けたこともなかった。
「いいえ」
「では俺の気のせいか」
涼しげな声色でのほほんと述べるこの美しい代表はずるい人だ。秘書に抜擢されて以来仕事はほとんど一任されており、代表取締役という立場にしては珍しく文句などほとんど言わない。まして個人的なこととなるとこれまでも数える程度しか踏み込まれた覚えはない。ただ接点を持とうとする時には、今のようにこちらが拒否も否定もできないと分かった上での物言いをしてくるのが常だった。
適度に本当のことを言えば納得してくれるだろうし、そうなればそれ以上の過干渉をしてくるとも思えなかった。自己裁量に完全に委ねられている事実になんとなく苦笑してしまう。改めて、ずるい、と心の中だけで呟く。
「申し訳ございません、最近寝不足なのです」
「ほう…寝不足とな」
「…夢を、」
みるのです。ぽつりと零れた自分の言葉は、静かな部屋に思いの外響いた。何の返事もしてこない沈黙がなんとはなしに気まずく、普段なら気にならない冷蔵庫の音がやけに大きく聞こえる。首が少し傾けられた揺れで、片側だけ垂れた濃紺の髪が靡くのを見つめていると、パソコンを見ていた目が自分を捉えた。
キシリと、何かが軋む幻聴が、
「して、それはどのような夢だ?」
「…え」
「さぞや眠りを妨げるものなのだろう」
てっきりそのまま話が終わるとばかり思っていただけに動揺する。すっと細められた社長の目には影絵を思わせる三日月が密やかに閉じ込められていて、いつ見ても不思議な気持ちにさせる。
それこそ夢にいるような錯覚を覚えるような。
何かを言おうと唇は隙間を作ったが、何をどう言えばいいのか分からずにただ無為にその瞳を見つめてしまう。寝不足のせいだろうか、思考につられて足元がふわりと浮遊する。手には確かにタブレットと手帳を持っているはずなのにその感覚すらあやふやになって、引きずり込まれる、と、思った。思考が働かずに宙を漂うこの感覚は、燭台切の時と同じ。
「一期」
「は、い、」
「憶えておるか」
「ゆめを?」
「そうだ、お主のいう夢を」
くらり、揺らぐのは視界か、思考か。
「一期一振吉光」
揺れる。
その声が知らない遠くの誰かと被るような幻聴。意識もせずに耳に入ったその単語は全く聞き慣れない何かだったのに、間違いなく自分を指し示すことを知っている。知っている、一期と呼ぶ声、笑う声、その、主は。
分からない。
分からない、はずだ。耳慣れない単語を馴染ませた代償のように何かを手放しかけた瞬間、鮮烈な音が空気を変えた。クリアな視界と現実に引き戻されたその音は、社長の両手から弾かれたのだと気付くのにたっぷり五秒はかかってしまった。思わずタブレットが滑り落ちそうになって慌てて持ち直す。
「一期、明日は休みだ」
「え」
「ゆっくり寝るといい」
「そんなわけには、」
「なに、明日は社内の会議が一つ、忘れておれば長谷部が内線でも寄越そう」
手元を整えて反駁しようとした時には、すでに三日月の瞳はこちらを見ておらず何も言えなくなる。浮遊した感覚も聞きなれないはずの単語も、先ほどの手打ち音一つで全て払われてしまったように、一期の中にはもうなにも残っていなかった。
休みがあっても寝れはしまい。そうは思ったが唯一直属の上司であり雇用責任者である社長に申し伝えられてしまっては、覆すことなど出来ないのは明白すぎた。一口だけはくりと空を食んでから首を縦に振れば、うむ、とだけ声がする。
久しぶりに施設へ連絡してみようかと心の片隅で検討し、午後からの仕事は何事も無かったように流れていった。
「今回も、捕まってしまったなぁ…鶴よ」
そう三日月が独りごちたのを知らなかったのを不幸だというのかどうかは、永遠に分からない。
◇
「いちにぃ!」
入館者用のボードを書いていると、階段の上から馴染んだ声が降ってくる。その一言を合図に、わっと子どもたちが駆け寄ってくるのを見て思わず頬が緩んだ。
郊外にある広い児童施設。物心ついた時にはいたそこが故郷だった。親は分からないし家族なんて知らないけれど、自分を兄と慕ってくれる子どもたちと共にあり、確かに彼らに支えられながら長い時をここで暮らした。
「久しぶりだね、みんないい子にしてたかい?」
「僕ね、美術で入選したんだよ!」
「あの、あの、いきものがかりに、なりました…!」
「クラスでちゃんと友だちできたよ!」
成長途中特有の声が自分にめがけてめいめいの口から飛び出してくる。その目はきらきらと輝いていて、聞いて、褒めて、と口よりもよほど雄弁に語っていた。素直で混じり気のない好意と純粋な気持ちは、いつも一期の心を暖かくしてくれる。
近くにある頭から順番に撫でていけば、彼らはそれだけでもぽわりと花が咲くように笑うのだ。今朝とて案の定いい目覚めなどではなかったが、寝不足や疲労が癒される。
「お、いち兄来てたのか」
コロニーのような状態のまま談話室で相手をしていた。どれくらい時間が経ったのかあるいは意外と経っていないのか、落ち着いた声が響く。玄関先を見れば立っている今年受験生のはずの薬研は、その気配を微塵も感じさせずに落ち着いたままで笑ってしまう。
「薬研、変わりないね」
「あぁ」
「制服は少し小さくなったみたいだ」
「…だと良いが」
数年前には着られていると錯覚していたような真っ黒な学ランは、いまや少し袖の長さが足りないようだ。直接に血は繋がっていなくとも、無事に育っていることが分かるとそれだけで嬉しくなる。このところ忙しいやら寝不足やらで施設に顔を出していなかったことも助長して、それだけで少し大人びて見える。逆に照れ隠しのように頬をかく仕草が一層子どもっぽく見えた。
ここに来ると安心する。家も家族も知らない自分が、確かに生活をし、生きたと言える場所があるのだと。
そろそろ施設から出なければならない年齢になった骨喰と鯰尾を待つと少し話をして、晩御飯を囲んでから帰宅するともういい時間になっていた。夢は見るだろうが、それでも多少穏やかに寝られそうだと布団にもぐる。いいリフレッシュになったと明日、社長に礼を言わねばと思いながら瞼を閉じた。
一期が知らない歯車が噛み合ってしまうのはもう明日だった。
(嵐の前の静けさ)