生存確認
 モズ氷(dcst)B
 2021/2/17 03:19

近所迷惑なくらい大きな音でノックされたドアを、ぼんやりとした思考のままゆるゆると開ける。誰ですか、なんて確認する余裕はなかったが、その必要もない。タイミングがタイミングだし、私の名を呼ぶ声は彼のものだから。
開いたドアの隙間から見えた彼の顔に、安堵する。

「氷月」
「これ、が」

言葉での説明も出来ないまま、床に転がったUSBとビニール袋を指す。状況を一瞬で理解したのだろう、モズ君の目が見開かれ、拳を握り締める音が静かな部屋に響いた。そんなに力を込めて握ったら掌が傷付いてしまう。まだ少し震えている手でモズ君の拳に触れたら、ほんの少し力が緩んだのが解った。
無言で部屋に入り、ドアを閉める。乱暴にビニール袋を掴み上げ、中身を確認するモズ君の表情は怒りに満ちていた。あんなに協力して貰ったのに、何の対策も取れずにここまでされてしまった。その不甲斐なさが恥ずかしくて、それでも頼ってしまった自分の弱さが情けなくて、モズ君に一言も掛けられない。
…それでも。彼の怒りは私を案じてくれているからなのだ。こんな状況なのにそれを、ほんの少し、喜んでいる自分がいる。

「見た?」

静かな声が問う。それに首を横に振って答えた。そりゃそうだよねと、現状を見てひとりごちる。

「見る?」

今度は、直ぐには答えられなかった。
見たくない。見なければならない。一人で見る事は出来なかったから、モズ君を呼んだ。思考を放棄して、ただただ、助けて、としか思えなくて。
今になって、迷惑だろうと、冷静な思考が言う。私と違って、モズ君はこの件と何の関わりもない完全なる部外者だ。そんな人を軽々に呼びつけ、犯罪者が送り付けて来たものを怖いから一緒に見て下さいなんて、自分勝手にも程があるのではないか。
何も言えず、動く事も出来ず、玄関先で蹲ったままの私を後目に、モズ君はずかずかと家に上がり込み、パソコンを探し始めた。
何も言わないのに。何も出来ないのに。モズ君は、私の為に動いてくれる。
案じてくれる人がいる。それがこんな状況でこんなにも救いになるのだと、初めて知った。

「見るよ。一緒に」
「……、はい」

パソコンを見付けて振り返った彼に手を差し伸べられ、その手を取る。
先程強く握った所為か、掌には爪が食い込んだ痕が付いていた。








USBを差し込んだパソコンの画面に映し出されたのは、何処かの部屋だった。ベッドの向こうに、白い壁と、恐らくカーテンが見える。部屋が暗いから色ははっきりとは解らないが、恐らく濃い青色のカーテンだ。
ベッドはつい今しがたまで寝転んでいたかの様にシーツが乱れ、その上に、…下着が、置かれている。今私達の目の前にある、大量の精液にまみれた下着が。
まさか、と思った。

『ひょうが…』

「!」

スピーカーから聞こえた声は、恐らく犯人のものだろう。しかし犯人そのものの声ではなかった。警察もののドキュメンタリーなんかでよく聞く、いかにも加工された低い声。
荒い息遣いに、時折私の名を呼ぶ声が混ざって、更にそこに何やら水音が重なる。ねちねちと。映像には映っていないのに、何をしているのか解ってしまう。

『ひょうが…、ひょうが、好きだよ、ひょうが。ひょうが…』

何度も何度も、私の名を呼ぶ。好きとか、かわいいとか、いやらしいとか。途中に差し挟まれる、不快にしかならない言葉は称賛のつもりなのだろうか。
こんな事をする輩に好かれても当然嬉しくなどないし、私は男だ、かわいくもいやらしくもない。それなのにどうして。私にそんな気持ちを抱いて、こんな行動に出て。映像を送り付けて来て。何のつもりで。
水音の間隔が段々早くなって、呼吸が忙しなくなって、私の名を呼ぶ声が切羽詰まって来て、称賛の言葉が、どんどん、聞きたくない言葉に成り代わっていく。見た事もない筈の、下着に包まれた箇所を、見た事があるみたいに言葉にして。ピンクでかわいいね? 狭くてきもちいいよ? 何を言っているんだ。理解が出来ない。黙れ。きもちわるい。

『氷月ッ…うあ、あぁっ!』

「ひ、っ…!?」

下着だけが映されていた画面に、突然入り込んだ異物。見るだけで限界寸前と解る程パンパンに膨らんだ陰茎が、その先端を震わせ、下着に白濁をぶちまけた。射精の勢いが衰えると、全体を執拗に擦って、中に残っていた残滓までも絞り出して下着に垂らす。一度の射精でこんなに大量の精液が出るものなのかと、最早冷静ではない頭で考える。あぁでも、今ここにある下着に付いている精液の量はこんなものではない。この後も何度も何度も、同じ事をしたのだろう。実際、陰茎がフレームアウトしたかと思えば、また水音がし始めた。
繰り返される、私を思っての自慰。耳を塞いでも、頭の中に加工された音声が響いて消えない。
何度目か解らない射精を見せ付けられた後、漸く満足したのか、映り込んだ手が精液に浸かったと言ってもいい有り様の下着を掴み上げた。
カメラが少し動いて、ベッドに座った男の下半身が映る。べとべとになった陰茎に下着を被せ、精液を拭った。…下着もべとべとになっているのだから、拭くどころか塗り広げているだけになっているが。

『…きもちよかったよ…氷月…』

ねっとりした声が満足げに言い、映像はそこで途切れた。

「…………」

ぺたりと床に座り込み、暗くなった画面を見たまま動けない。私は今何を見たのか。何をされていたというのか。直接何かをされた訳では決してないのに、どうしてこんなに。

「狙われてたのは、ほむらちゃんじゃなかったんだね」
「!」

隣のモズ君がぼそりと呟く。
そうだ。盗まれていたのは私の下着だった。私の名を呼びながら自慰に使った下着を、私の家に置いて行った。始めから、狙いは。


「狙いは君だよ、氷月」


───私が、ほむらクンを巻き込んだ。
私が中途半端な正義感で余計な事をしたから。
自分が、男から性的な目で見られ、被害を受ける事がどれだけ怖くて気持ち悪いか。…こんな思い、ほむらクンはしなくてもよかったのに、私の所為で。

「…ぅ、ッ、」

込み上げて来たものが、咄嗟に閉じた唇の間から、唇を押さえた指の隙間から漏れて溢れる。つんとした臭いが体の外と中、両方から鼻を刺す。溢れて跳ねてフローリングに広がっていく液体が自分の服を汚すのを、知らず知らずのうちに浮かんだ涙で滲んだ視界に捉えても、もうどうしようもなかった。自分が汚れるのはいい。モズ君が汚れていなければ。
えずくのを止められず、言葉を発する事が出来ない。モズ君、と名を呼びたかったのに。何も言えなかったがせめて、突然嘔吐した私を汚いと、距離を取っていてくれたらいい。そう思って彼の方へ目を向ける。
モズ君は直ぐ近くにいた。ひくひくと跳ねる私の背に手を添えて、ゆっくりと上下に擦っている。…いつからだろう。もしかしたら最初からそうだったのか。

「……モ」
「喋んないでいいよ。全部吐いて。片付けんのは俺やるから、全部」
「よごれます…、はなれて」
「いいから吐けって。喉に指突っ込まれたくないだろ」
「……」

大きくてあたたかい掌が、背中と肩に触れている。時折とんとんと叩く様にして、吐くのを拒否する私を叱るみたいに。
モズ君の言葉は決して脅しではない。私がこれ以上拒めば本当に、手は引き剥がされ喉をその指で侵されるだろう。抵抗は無駄だ。
大人しく、吐いてしまおう。吐けるものは全て。抱き寄せられる肩を優しく撫でる手に、今は縋って。
見るに耐えない、吐瀉物まみれの視界を振り払いたくて瞼を閉じる。溜まっていた涙が頬を伝って落ちたのが解った。














洗面台ではカバーし切れない程に汚れた私は、モズ君によって脱衣所に押し込められ、抵抗する間もなく服を剥ぎ取られて、シャワーを浴びろと命令されてしまった。私がシャワーを浴びている間に部屋を片付けるからなるべくゆっくりして来る様に、なんて。…あんな見た目をしている癖に、優しい男だ。
髪を洗って、顔と体も洗って。一見していつも通りになっただろう頃に、磨りガラス越しの脱衣所に人影を見た。

「きれいになった?」
「ええ。そちらは」
「きれいにしたよ。においはまだちょっとあるかも知んないけど、まぁザーメン臭いよりマシじゃないの」
「…そう、ですね」

話し掛けて来た人影は、洗濯機を操作して直ぐに出て行った。ドアを開けると、起動した洗濯機の上にバスタオルと着替えが置いてある。至れり尽くせりだ。
…何度か使った事のある下着を穿いて、用意してくれた部屋着を着て。髪は、拭くだけでいい。乾かす気力は、今はない。
脱衣所を出ると、確かにまだほんの少し、吐いたもののにおいが残っていた。窓は全開で、キッチンの換気扇も回っているが、量が量だったからそんなに直ぐには変わらない。
吐いたもの以外の、強い臭いを放ちそうなものは、今は袋の口を縛ってベランダに置いてある。USBは未だパソコンに差さったままだ。

「氷月、今日俺んち来る? それとも俺がここ泊まろうか」

USBを凝視したまま固まった私に、モズ君が声を掛ける。呆けていて最初は意味が解らなかったが、ゆっくりと反芻して、理解して。首を振った。急に呼び出して、散々迷惑をかけて、更にこれ以上なんて出来る訳がない。

「? なんで」
「大丈夫です。心配しないで下さい」
「心配しないでいられる訳ないでしょ、こんなの見せられて」

拒否しても食い下がられて、それはそうだ、と思う。あんなものを一緒に見せられたのだ、モズ君だって平常心ではいられないだろう。

「こんなものを見せてすみません」
「そういう事じゃない」

USBを引き抜いて、見えない所へ投げ捨ててしまいたかった。私の手を握り込むモズ君の手によって阻まれてしまったけど。
固く握った手を指で柔らかくほどかれ、中のUSBが取り出される。私からモズ君へと渡ったそれが、モズ君の手の中で音を立てて砕けた。

「謝らせたい訳じゃないよ」

握り潰されたUSBを床に落としたモズ君の手は、僅かな切り傷から血を滲ませ、見るからに痛々しい。…私の所為で。私の為に。


「ねぇ、俺んちおいでよ。男にこんな事されてて、男が怖いとか汚いとか思うかも知れないけど、…俺が怖くも汚くもないと思ってくれるなら。俺がいる事でちょっとでも氷月が安心出来るなら、いくらでも傍にいるから」


私の為に汚れ、私の為に傷付いた。そんなモズ君が怖いなんて、汚いなんて。そんな訳ない。

「…ありがとうございます。モズ君は怖くありません、汚くなんかない…。君がいると、安心、します」

傷付いた手を、私から握る。
私を守る為に傷付いた手。切り傷も、先程の爪の痕も。指先でなぞるたびに、何故だろうか、いとおしいと思った。

c o m m e n t (0)



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